第45話 ご一緒なら、という言葉の重み
読みに来てくださりありがとうございます。
今回はグランフェル家側のお話です。
正式な訪問日程が決まり、セドリックもノエルもそれぞれ少し緊張しながら準備を進めています。
楽しんでいただけたら嬉しいです。
シャロン嬢からの返事を読んだセドリックは、しばらく動けなかった。
机の上には、正式な招待状の控え。
ハイレン領訪問の予定表。
市の配置図。
ノエルの記録表。
エミリアが書き出した書庫案内の候補。
どれも確認すべきものだった。
だが今は、便箋の一文から目が離せない。
――私はまだ、ただ歩くことが上手ではないかもしれません。
――ですが、セドリック様がご一緒なら、少し試してみてもよいと思っています。
「……ご一緒なら」
声に出した瞬間、胸の奥が熱くなった。
大きな愛の言葉ではない。
甘い約束でもない。
けれど、シャロン嬢がこの言葉を書くまでに、どれほど迷ったかは想像できた。
彼女は、簡単に人へ寄りかからない。
何かを見る時は役に立とうとし、誰かといる時は失礼がないよう整え、自分の感情で場を乱すことを嫌う。
その彼女が。
自分と一緒なら、ただ歩くことを少し試してみてもよいと書いてくれた。
信頼だ。
そう思った。
セドリックは便箋を丁寧に置き、深く息を吐いた。
そこへ、扉が控えめに叩かれる。
「兄上、よろしいですか」
ノエルの声だった。
「ああ」
入ってきたノエルは、両手で記録表の束を抱えていた。
表情は真面目だが、少し緊張している。
「シャロン嬢からのお返事が来たと聞きました」
「ああ。お前のことも書いてくださっている」
ノエルの肩がわずかに強張った。
「何と……?」
セドリックは便箋の該当箇所へ目を落とす。
「市を見る折に同行することは、ご負担ではないそうだ。むしろ、記録表を作った者が実際の場をどう見るのか、知りたいと」
ノエルは目を丸くした。
「私が、どう見るのかを?」
「ああ」
「そんな、大したことは……」
「ないとは、シャロン嬢は思っていない」
ノエルは口を閉じた。
セドリックは続ける。
「ご挨拶は短くて十分。こちらこそ、良い記録表を見せていただいたことに礼を申し上げたい、と書いてくださっている」
「礼を……シャロン嬢が、私に?」
「ああ」
ノエルは、しばらく何も言わなかった。
手元の記録表を見下ろし、指先に少しだけ力を入れている。
「兄上」
「何だ」
「私は、ちゃんとお礼を言えるでしょうか」
「言える」
「短くても?」
「短くていい。むしろ、無理に長く話さなくていい」
ノエルは少し考えた後、ゆっくり頷いた。
「はい」
「緊張しても構わない」
「構わないのですか」
「緊張していること自体は、失礼ではない」
ノエルはその言葉に、少しだけ驚いたようだった。
「そうでしょうか」
「ああ。相手を軽く見ていないから緊張することもある」
「……はい」
小さな返事だった。
けれど、その顔には少し安心があった。
「それから」
セドリックは机の上の予定表を指した。
「訪問の日程が、ほぼ固まった。正式な返答は父上宛てに来るが、来月第一週の一泊二日になる見込みだ」
「では、本当にいらっしゃるのですね」
「ああ」
ノエルの目が配置図へ向く。
「市を見るなら、朝の流れをもう一度確認しておきます。雨の日の記録も、晴れの日と分けておいた方がよいでしょうか」
「そうだな。だが、当日までに全部整えようとしすぎるな」
「はい」
「お前が疲れきっていたら、記録を見る余裕もなくなる」
ノエルは少しだけ気まずそうに視線を逸らした。
図星だったのだろう。
「気をつけます」
「それでいい」
そこへ、エミリアが小書斎へ入ってきた。
「兄様、ノエル。今、よろしいですか?」
「どうした」
「書庫の候補を絞りました」
エミリアは真剣な顔で、一枚の紙を差し出した。
そこには、書名が整った字で並んでいる。
北方街道記。
西辺境紀行に関連する旅行記。
ハイレン領史。
古い騎士団の補給記録。
領内橋梁修繕覚書。
セドリックは最後の二つを見て、少し眉を上げた。
「フローラ嬢に補給記録を見せるのか」
「はい。きっと興味を持たれます」
「そうか?」
「持たれます」
断言だった。
「領内橋梁修繕覚書も?」
「はい。街道と橋の記録は、旅行記と合わせると面白いです」
ノエルが小さく呟いた。
「それは、少し面白そうです」
エミリアがぱっとノエルを見た。
「でしょう?」
「はい。どの橋が、どの年に直されたかがわかれば、荷の流れとも関係するかもしれません」
「ほら、面白いでしょう」
「姉上が言うと、少し圧があります」
「褒めているの?」
「半分くらいは」
セドリックは思わず笑った。
以前のノエルなら、こんなふうに軽く返すことはなかったかもしれない。
エミリアも同じことを思ったのか、にこりとした。
「ノエル、少し言い返せるようになりましたね」
「言い返したつもりはありません」
「では、意見を言えるようになりましたね」
「そうですね……少しは」
ノエルは戸惑いながらも、小さく頷いた。
家の中に、訪問を楽しみにする空気が少しずつ満ちていく。
それが不思議で、温かかった。
午後、正式な返答がベルフォール家から届いた。
父ギルバート宛ての文書だった。
来月第一週の日程を受けること。
同行者は、シャロン嬢、リディア嬢、フローラ嬢。
ベルフォール子爵夫妻は今回は同行せず、娘たちに侍女と護衛をつけること。
ただし、家同士の正式な訪問として、行程と滞在の扱いは両家で確認すること。
ギルバートは文書を読み終えると、静かに頷いた。
「決まったな」
「はい」
セドリックは背筋を伸ばした。
「ベルフォール子爵夫妻は同行されないのですね」
「そのようだ。娘たちだけを送るのは、こちらへの信頼でもある」
その言葉に、セドリックの胸が引き締まる。
信頼。
シャロン嬢の言葉も。
ベルフォール家の判断も。
どちらも軽く扱ってはいけない。
「こちらも相応に迎える」
ギルバートは言った。
「客室は三部屋。侍女用の部屋も整える。護衛の控えも用意しろ」
「はい」
「初日の夕食は、重すぎないものにする。移動の後だ。形式ばかりを優先するな」
「承知しました」
アメリアも頷いた。
「シャロン嬢のお部屋は、庭の見える部屋にしましょう。リディア嬢はその隣、フローラ嬢は書庫に近い側の部屋……と言いたいところだけれど、近すぎると夜更かししそうね」
「母上」
「冗談よ。半分は」
エミリアが小さく笑った。
「フローラ様なら、本当に夜に書庫へ行きたくなるかもしれません」
「なら、案内は日中だけにしましょう」
「はい」
フローラ嬢が聞いたら、少しだけ残念そうな顔をするかもしれない。
いや、顔には出さずに「承知しました」と言うだろうか。
どちらにしても、セドリックには少し想像できるようになっていた。
「セドリック」
ギルバートが呼んだ。
「はい」
「当日の案内は、お前が主になる。市を見る時も同じだ」
「はい」
「ただし、妹君たちもいる。シャロン嬢だけを見すぎるな」
エミリアが口元を押さえた。
ノエルは真面目な顔で視線を落としている。
アメリアは微笑んでいる。
セドリックは少しだけ咳払いをした。
「心得ています」
「本当に?」
父に確認された。
「……努めます」
「よろしい」
父は淡々と頷いた。
家族の視線が少し痛い。
けれど否定しきれない自分がいる。
自分はきっと、当日シャロン嬢の様子を気にするだろう。
疲れていないか。
無理をしていないか。
楽しめているか。
役目に戻りすぎていないか。
それを見たいと思うこと自体は悪くない。
ただ、彼女だけを囲い込むような形にはしない。
彼女の妹たちも、グランフェル家の家族も、皆が自然に過ごせるように。
それが、迎える側として必要なことだ。
その夜、セドリックはシャロン嬢へ手紙を書いた。
正式な日程が決まったことへの礼。
リディア嬢とフローラ嬢の同行を心から歓迎すること。
客室や行程は無理のないよう整えること。
そして、ノエルのこと。
――ノエルは、シャロン嬢のお言葉に安心したようです。
――短くてもよいのなら、きちんとお礼を申し上げたいと、改めて練習しております。
――緊張は残っておりますが、前向きな緊張のように見えます。
書きながら、セドリックは弟の顔を思い出した。
以前よりも、少しだけ前を向いている。
それが嬉しい。
次に、あの一文への返事を書く。
――私が一緒なら、と書いてくださったことを、大切に受け取りました。
――ただ歩くことを試してみる時間が、少しでも穏やかなものになるよう、私もご一緒いたします。
――急がず、けれど置いていかずに。
そこまで書いて、手を止めた。
少し強いだろうか。
だが、これが今の自分の気持ちだった。
彼女を急かさない。
けれど、ひとりで歩かせるのでもない。
隣にいる。
それを、言葉にしたかった。
追伸には、いつものように書く。
――蜂蜜の焼き菓子の陣営については、中立の立場を尊重いたします。
――ただし、虚偽申告は減点とのことですので、こちらも正直な報告を心がけます。
書き終えて、セドリックは小さく笑った。
騎士団の報告書よりも、家の文書よりも、この追伸は妙に気が抜けていて。
それでいて、彼女との距離を一番自然に縮めてくれる。
ご一緒なら、という言葉の重み。
それを受け取った以上、当日はただ隣を歩くだけでは足りない。
彼女が安心して、ただ見て、歩いて、知ることができるように。
そして、自分もまた、彼女が何を見て、何を感じるのかを知るために。
セドリックは丁寧に封を閉じた。
ハイレン領で彼女を迎える日まで、あと少しだった。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
シャロンの「ご一緒なら」という言葉は、セドリックにかなり大きく届いたようです。
ハイレン領訪問まで、もう少しです。
次回もよろしくお願いします。




