第42話 訪問準備は、思ったより賑やかです
読みに来てくださりありがとうございます。
今回はベルフォール家側のお話です。
ハイレン領訪問に向けて、正式な準備が始まりました。
楽しんでいただけたら嬉しいです。
グランフェル家からの返事は、昼下がりに届いた。
その日、私は小サロンでハイレン領の市についてまとめた覚え書きを確認していた。
机の上には、配置図に重ねた薄紙。
確認事項。
ノエル様の記録表についての意見。
そして、蜂蜜の焼き菓子の王座に関する、非常にどうでもよくない追伸の写し。
……最後のものは、もちろん正式な資料ではない。
だが最近、私の中でそれなりの位置を占めているのが少し悔しい。
「お姉様」
フローラが窓辺から静かに言った。
「今、仕事の資料と焼き菓子の資料を同じ目で見ていました」
「同じではないわ」
「少し似ていました」
「似ていないわ」
「では、そういうことにしておきます」
「その言い方は認めていないでしょう」
フローラは本を閉じずに、ほんの少しだけ笑った。
リディアは長椅子でレオンの相手をしている。
最近のレオンは、私が小サロンにいるとやたらと手を伸ばしてくる。
今日も、布の玩具を握ったまま、こちらへ「あー」と声を上げていた。
「レオンもハイレン領へ行きたいのかしら」
リディアが言った。
「赤子を伯爵家訪問に連れていくのは大変でしょう」
「でも、レオンもお姉様の応援をしたいかもしれません」
「あー」
「ほら」
「返事として採用しないで」
母がくすりと笑った。
そんなところへ、侍女がグランフェル家の封筒を運んできた。
「グランフェル伯爵家より、お手紙でございます」
空気が少し変わる。
リディアは目を輝かせ、フローラは本を閉じた。
母は刺繍の手を止め、私を見る。
私は封筒を受け取った。
封蝋はグランフェル家のもの。
中には、父宛ての正式な文書とは別に、セドリック様から私宛ての手紙が入っていた。
父宛てのものは、執務室へ届けるよう侍女に頼む。
私は自分宛ての手紙を開いた。
書き出しには、ベルフォール家が前向きに検討していることへの礼があった。
フローラの同行について、エミリア様がとても喜んでいること。
リディアの同行も歓迎していること。
蜂蜜の焼き菓子については、臣下候補をいくつか用意する予定であること。
そこで、リディアが身を乗り出した。
「お姉様」
「まだ何も言っていないわ」
「今、焼き菓子のところで止まりましたね」
「読んでいないのに当てないで」
「当たったんですね」
当たっていた。
私は咳払いをした。
「セドリック様が、蜂蜜の焼き菓子の臣下候補をいくつか用意する予定だそうよ」
「まあ!」
リディアの顔がぱっと明るくなる。
「臣下候補!」
「あなた、そこに食いつきすぎよ」
「だって、王座を支える臣下ですよ? 大事です」
「焼き菓子の話よ」
「焼き菓子だからこそです」
堂々と言われると、少しだけ負けた気がする。
フローラが静かに言った。
「リディアお姉様は、すでに反乱側ではなく臣下側なのですね」
「美味しければどちらの陣営でも構いません」
「節操がありません」
「美味しさに忠実なの」
「それを節操がないと言います」
私は扇で口元を隠した。
母も笑っている。
グランフェル家への正式訪問という、貴族家としては大事な話をしているはずなのに、なぜか焼き菓子の陣営の話になっている。
けれど、それが不思議と悪くなかった。
「それで」
フローラが静かに私を見る。
「書庫のことは?」
「当然のように聞くのね」
「大事です」
「あなたもリディアのことを言えないわよ」
「書庫ですので」
私は手紙へ視線を落とした。
「エミリア様は、書庫をご案内するのを楽しみにしているそうよ。あなたに見せたい棚があるのだとか」
フローラの目が、ほんの少しだけ輝いた。
静かすぎて他人にはわからないかもしれない。
けれど、私はわかる。
これはかなり喜んでいる。
「見せたい棚」
「ええ」
「騎士団関係でしょうか。領地史でしょうか。それとも旅行記の棚でしょうか」
「本人に聞きなさい」
「そうします」
返事が早い。
リディアが嬉しそうに笑った。
「フローラ、楽しみね」
「はい」
今度は逃げなかった。
フローラは小さく頷いた。
「楽しみです」
その素直な言葉に、リディアが一瞬固まり、それから笑顔になる。
「今、すごく素直だったわ!」
「リディアお姉様、声が大きいです」
「だって嬉しいんだもの」
「私は書庫が楽しみなだけです」
「それでもいいのよ」
二人のやり取りを聞きながら、私は手紙の続きを読んだ。
――シャロン嬢がハイレン領を楽しみにしてくださっていることを、私も嬉しく思っております。
――市を見る時間も、ただ歩く時間も、どちらも大切に準備いたします。
ただ歩く時間。
また、その言葉に引っかかった。
私はいつも、何かを見る時に目的を探してしまう。
何のために。
何を確認するのか。
どこに改善点があるのか。
それは悪いことではない。
けれど、セドリック様はそれだけではない時間も用意しようとしている。
ただ歩く。
ただ見る。
ただ、その場所を知る。
それは、私にとって意外と難しいことかもしれない。
「お姉様」
フローラが静かに言った。
「今度は少し考え込んでいます」
「ええ」
「何か難しいことが?」
「難しいというか……」
私は便箋を見つめた。
「市を見る時間だけではなく、ただ歩く時間も大切に準備すると書いてくださっているの」
母の表情が柔らかくなる。
「良い言葉ね」
「はい」
私は素直に頷いた。
「私、ただ見るというのが少し苦手なのかもしれません」
口にしてから、自分で少し驚いた。
リディアもフローラも静かになる。
母は何も言わずに続きを待っていた。
「何かを見れば、役に立てる場所を探してしまいます。改善できるところや、整えられるところや、問題の原因を」
それは、跡継ぎとして育てられた癖だ。
いや、今はもう、それだけではないとわかっている。
私は考えることが好きだ。
人の流れを見ることも、仕組みを整えることも。
けれど同時に、何かに役立たなければと思う自分もいる。
「でも、セドリック様は……ただ歩く時間も、と」
言い終えると、胸の奥が少し熱くなった。
母が静かに微笑む。
「きっと、あなたに楽しんでほしいのね」
「楽しむ」
「ええ。役に立つためだけではなく、そこにいる時間を」
楽しむ。
その言葉は、少し眩しかった。
リディアがそっと言う。
「お姉様、楽しんでいいと思います」
「あなたはいつも簡単に言うわね」
「はい。簡単に言います。でも本気です」
明るい妹の真っ直ぐな言葉は、時々とても強い。
フローラも続けた。
「お姉様が楽しんでいると、周りも少し安心します」
「そうなの?」
「はい。最近、よくわかりました」
「最近?」
「セドリック様のお手紙を読んでいる時です」
「フローラ」
「事実です」
母がとうとう笑った。
私は扇を開いた。
隠しきれたかどうかは、わからない。
夕方、父の執務室に呼ばれた。
グランフェル家からの正式な文書が届いたため、訪問について話し合うためだ。
執務室には、父と母、私、リディア、フローラが揃っていた。
父は文書を読み終えると、静かに言った。
「グランフェル伯爵家から、正式に招待の打診が来た。日程は候補が二つ。どちらも一泊を想定している」
「一泊……」
リディアの声が小さく弾む。
父が視線を向けると、リディアはすぐに姿勢を正した。
「失礼しました」
「浮かれるな、とは言わない」
「よろしいのですか?」
「浮かれすぎるな」
「はい!」
リディアは非常に良い返事をした。
信用できるかは別として。
「シャロン」
「はい」
「主な目的は、グランフェル家との交流、ハイレン領の見学、市の確認だ。順番を間違えないように」
「はい」
「お前に助言を求める面もあるだろうが、今回は正式な客人として招かれている。そこは忘れないように」
父の言葉は、私の胸にまっすぐ届いた。
役に立つためだけではない。
客人として。
招かれる相手として。
「承知しました」
「フローラ」
「はい」
「書庫に興味があるのはわかった」
父が言うと、フローラは真面目に頷いた。
「はい」
「だが、書庫に入り浸らないように」
「努力します」
「努力が必要か」
「書庫ですので」
父は一瞬黙った。
母が口元を押さえる。
私は目をそらした。
「……節度を持つように」
「はい」
父は次にリディアを見る。
「リディア」
「はい」
「焼き菓子だけを目的にしないように」
「はい!」
「返事が早い時ほど怪しいな」
「お父様」
「だが、お前が場を明るくすることもある。騒ぎすぎず、姉の邪魔をしないこと」
「わかっています」
リディアは少しだけ真面目な顔になった。
「お姉様が新しい場所へ行くのを、ちゃんと見守ります」
父はしばらくリディアを見た。
それから、小さく頷いた。
「なら、同行を認める方向で調整しよう」
リディアの顔が明るくなる。
フローラも静かに頷いた。
私の胸も、少しだけ弾んだ。
妹たちが同行する。
心強いような、賑やかすぎるような。
でも、悪くない。
「日程については、こちらの都合を確認し、明日正式に返答する」
父が締めた。
「準備を始めなさい」
「はい」
その夜、私はセドリック様への返事を書いた。
正式な招待への礼。
家として前向きに受ける方向で調整していること。
日程は父から正式に返答すること。
そして、私自身の言葉。
――市を見る時間だけでなく、ただ歩く時間も大切に準備すると書いてくださったことが、心に残りました。
――私は、何かを見る時、つい役に立てる場所を探してしまいます。
――ですが、今回はただ見て、歩いて、知る時間も大切にしてみたいと思います。
書きながら、少し緊張した。
これは、自分の癖を認める言葉だ。
役に立たなければ、と考えてしまう自分。
ただ楽しむことが少し下手な自分。
それを、セドリック様に見せるような文だった。
けれど、彼ならきっと雑には扱わない。
そう思えることが、すでに少し安心だった。
さらに続ける。
――リディアは焼き菓子に、フローラは書庫に、それぞれかなり前向きです。
――姉としては少し不安もありますが、妹たちが楽しみにしていることを、私も嬉しく思っています。
最後に追伸。
――蜂蜜の焼き菓子の臣下候補については、リディアがすでに陣営を見極める気でおります。
――王座側、反乱側、どちらにつくかは味次第だそうです。
書き終えて、私は少し笑った。
自分でも、だいぶこの妙なやり取りに慣れてきている。
訪問準備は、思ったより賑やかです。
不安がないわけではない。
けれど、賑やかな不安というものは、ひとりで抱える不安より少し軽いのだと、私は初めて知った。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
リディアとフローラの同行も見えてきて、訪問準備が少し賑やかになってきました。
シャロンも「ただ楽しむ」ことに少し向き合い始めています。
次回もよろしくお願いします。




