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元跡継ぎ令嬢はお見合い結婚した騎士伯爵と恋をします  作者: 影道AIKA


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第38話 あなたの領地を知るということ

読みに来てくださりありがとうございます。

今回はベルフォール家側のお話です。

ハイレン領の市を見に行く提案を受けて、シャロンが少しだけ自分の気持ちを言葉にします。

楽しんでいただけたら嬉しいです。

セドリック様からの手紙を読み始めた時、私はいつものように小サロンにいた。


 机の上には、ハイレン領の市の配置図に重ねた薄紙。

 その横には、確認事項をまとめた覚え書き。

 そして、グランフェル家の封蝋が押された封筒。


 最近、この小サロンはすっかり手紙と配置図の部屋になっている気がする。


 以前なら、自室でひとり確認していただろう。

 誰かに見られるのは落ち着かなかったし、家族の前で自分の感情が揺れるところなど見せたくなかった。


 けれど今は、リディアがレオンの相手をし、フローラが窓辺で本を読み、母が刺繍をしているこの場所で手紙を読むことに、少しだけ慣れてきていた。


 慣れた、というより。


 ここなら、少し揺れても大丈夫だと思い始めているのかもしれない。


「お姉様」


 フローラが本から顔を上げる。


「封筒を前にして、配置図を見つめるのは二回目です」


「数えないで」


「癖です」


「あなたのその癖、改善の余地があるわ」


「観察眼は長所だと、以前お姉様が褒めてくださいました」


「今は都合よく使わないで」


 フローラは少しだけ笑った。


 リディアはレオンを膝に乗せながら、こちらをにこにこと見ている。


「セドリック様からですよね」


「ええ」


「今回は何でしょう。配置図の続きでしょうか。それとも蜂蜜の焼き菓子の王座でしょうか」


「王座の話を当然のように混ぜないで」


「でも大事です」


「大事ではあるけれど、主題ではないわ」


 自分で言ってから、少しだけしまったと思った。


 大事ではある、と認めてしまった。


 リディアの目が輝く。

 フローラも静かにこちらを見る。


「……何よ」


「いえ。お姉様が素直になってきたなと思って」


「リディア」


「はい、少し黙ります」


 私は息を吐き、封を切った。


 手紙の書き出しは、いつも通り丁寧だった。


 配置図の確認事項への礼。

 ノエル様が備考欄の案を褒められて喜んでいたこと。

 管理人へ確認を進めること。

 それから、ノエル様が記録から市の流れを読むことに面白さを感じ始めていること。


 そこまでは、仕事の話として読めた。


 けれど、次の段落で指先が止まった。


 ――もしご負担でなければ、いつかハイレン領の市を実際にご覧いただけないかと考えております。

 ――助言をお願いしたいという気持ちもありますが、それだけではありません。

 ――私が生まれ育った領地を、シャロン嬢にも少しずつ知っていただけたら嬉しいのです。


 私は、しばらく便箋を見つめた。


 ハイレン領の市を、実際に見る。


 助言をお願いしたいだけではない。


 私が生まれ育った領地を、知ってほしい。


 その言葉が、胸の奥にゆっくり落ちていく。


 領地を見せるということは、ただ案内するという意味ではない。

 特に領主家の人間にとって、領地とは家の顔であり、自分の育ってきた場所であり、大切なものそのものだ。


 ミルディア領が、私にとってそうであるように。


 セドリック様にとって、ハイレン領もそうなのだろう。


 その場所を、私に知ってほしいと書かれている。


「お姉様?」


 リディアの声がした。


「何」


「今、すごく真剣な顔をしていました」


「真剣にもなるわ」


「何か大事なことが書いてあったんですか?」


 私は便箋へ視線を落としたまま、少し迷った。


 けれど、隠すほどのことではない。


 いや、隠したいと思う気持ちも少しある。

 けれど、最近は隠さない方が楽になることもあると知り始めている。


「セドリック様が、いつかハイレン領の市を実際に見てほしいと」


 そう言うと、母が刺繍の手を止めた。


 リディアの表情が明るくなる。

 フローラは静かに目を細めた。


「まあ。ハイレン領へ?」


 母が穏やかに尋ねる。


「ええ。もちろん、まだ提案の段階よ。ベルフォール家の都合を第一に、相談として受け取ってほしいと書いてあるわ」


「丁寧な方ね」


「そうですね」


 私の声は、自分で思ったよりも柔らかかった。


 母の目元が少しだけ緩む。


 それには気づかないふりをした。


「助言をお願いしたい気持ちもあるけれど、それだけではないそうよ」


 私は続けた。


「ご自分が生まれ育った領地を、私にも少しずつ知ってほしいと」


 口にした瞬間、胸の奥がまた落ち着かなくなる。


 言葉にすると、より重みが増す。


 リディアが両手を合わせた。


「素敵です」


「出たわね」


「でも、これは本当に素敵です。セドリック様が大切な場所を、お姉様に知ってほしいということでしょう?」


「そう、なのだと思うわ」


「お姉様は、嫌ですか?」


 嫌か。


 その問いは、最近何度も私の前に現れる。


 エミリア様と会うこと。

 フローラがグランフェル家とつながること。

 家族同士が近づくこと。

 そして、セドリック様の大切な場所を知ること。


 どれも怖くないわけではない。


 けれど、嫌ではない。


 むしろ。


「……興味は、あるわ」


 私はゆっくり答えた。


 リディアがぱっと笑う。


「それはかなり前向きですね!」


「あなたの解釈はいつも勢いが強いわ」


「でも合っています」


 フローラが静かに言った。


「今回は、リディアお姉様に同意します」


「フローラまで」


「お姉様が領地の現場に興味を持たないはずがありません」


「それは仕事の話でしょう」


「それだけではないと思います」


 フローラの声は静かだった。


「ハイレン領は、セドリック様の大切な場所なのでしょう?」


「……そうね」


「そこを知りたいと思うなら、それは仕事だけではないと思います」


 逃げ道を塞がれた。


 この妹は、本当にこういう時だけ鋭い。


 いや、いつも鋭い。


「あなた、エミリア様と手紙を交わし始めてから、さらに遠慮がなくなっていない?」


「関係はあるかもしれません」


「あるのね」


「はい。エミリア様も、率直な方なので」


「二人で妙な方向へ成長しないでちょうだい」


 フローラは少しだけ笑った。


 リディアも楽しそうに笑う。


 母は私を見て、静かに言った。


「お父様にも相談しましょう。ハイレン領へ伺うなら、家としてきちんとお返事しなければならないわ」


「はい」


「でも、その前に」


 母の声が少し柔らかくなる。


「あなた自身は、行ってみたいのね?」


 私はすぐには答えられなかった。


 行ってみたい。


 そう言ってしまえば、何かが一歩進む気がした。


 ハイレン領を知る。

 セドリック様の生まれ育った場所を知る。

 それは、お見合い相手としての距離を越えていくことではないのか。


 けれど、もう私は知っている。


 私たちはすでに、ただのお見合い相手ではなくなり始めている。


 手紙を重ね。

 焼き菓子の王座を語り。

 家族の話をし。

 弱さを聞いてくれる場所の話までしている。


 それを、今さらなかったことにはできない。


「……行ってみたいです」


 小さく言った。


 小サロンが、静かになった。


 けれど、その静けさは冷たくなかった。


 母が、そっと微笑む。


「そう」


 それだけだった。


 その一言がありがたかった。


 リディアは何か言いたそうに口を開きかけ、フローラに袖を引かれて閉じた。


 よくやったわ、フローラ。


 私は心の中で妹を褒めた。


 その時、レオンが「あー」と声を上げた。


 リディアの膝から身を乗り出すように、こちらへ手を伸ばしている。


「レオンも行きたいのでしょうか」


 リディアが笑う。


「赤子をハイレン領視察に参加させないで」


「あー」


「返事だけは前向きね」


 私はレオンのそばへ行き、小さな手を握った。


 柔らかくて、温かい手。


 この子が生まれたことで、私はミルディア領の跡継ぎではなくなった。

 それは今も、完全に消えた痛みではない。


 けれど、ハイレン領へ行ってみたいと思う自分がいる。


 別の土地を見たい。

 別の場所で、自分の力を使ってみたい。

 セドリック様の大切なものを知ってみたい。


 その気持ちは、たぶん悪いものではない。


 夕方、父にも話が通された。


 エドモンドは執務室で母から説明を聞き、私へ視線を向けた。


「シャロンは、どう思っている」


 父の声は落ち着いていた。


 昔なら、この声を聞くだけで背筋を伸ばし、正しい答えを探していた。


 跡継ぎとして。

 娘として。

 父に失望されないように。


 けれど今は、少し違う。


「ハイレン領の市には、興味があります」


 私は答えた。


「配置図だけではわからない点もありますし、現地を見れば確認できることも多いかと」


「そうか」


「ですが」


 私は少しだけ息を吸った。


「それだけではありません」


 父の目が、わずかに動いた。


「セドリック様が、ご自身の生まれ育った領地を知ってほしいと書いてくださいました。ですから、私も……知ってみたいと思っています」


 言えた。


 仕事の話だけに逃げなかった。


 父はしばらく黙っていた。


 怒っているわけではない。

 ただ、私の言葉を受け取っている顔だった。


「そうか」


 父はもう一度言った。


 今度の声は、少しだけ柔らかかった。


「なら、家として前向きに検討しよう」


「ありがとうございます」


「ただし、正式な訪問となる。日程や同行者、滞在の形は慎重に決める」


「はい」


「シャロン」


「はい」


 父は静かに私を見た。


「お前が行ってみたいと思うのなら、それは大事にしなさい」


 胸の奥が、ぎゅっと締めつけられた。


 父から、そんなふうに言われるとは思わなかった。


 好きに生きていい。


 あの時の言葉は、私には「もう役目はない」と聞こえた。


 けれど今、父は私の意思を確かめてくれている。


 役目ではなく。

 私が行きたいと思うなら、と。


「……はい」


 声が少し揺れた。


 父はそれ以上、何も言わなかった。


 それがありがたかった。


 夜、自室に戻ってから、私はセドリック様への返事を書いた。


 まずは手紙への礼。

 配置図の確認を進めてくださっていること。

 ノエル様の案が現場に合っていると思うこと。


 そして、ハイレン領訪問について。


 ――ハイレン領の市を実際に見せていただけるというお話、ありがたく拝読しました。

 ――助言のためだけではなく、セドリック様の生まれ育った領地を知ってほしいと書いてくださったことが、強く心に残っています。


 そこで、手が止まった。


 心に残っています。


 少し素直すぎるだろうか。


 でも、消さなかった。


 続ける。


 ――私も、ハイレン領を知ってみたいと思いました。

 ――配置図の先にある道や人の流れを見たいという気持ちもあります。

 ――ですが、それだけではなく、セドリック様が大切にしている場所を、私も少しずつ知っていけたらと思います。


 書いてしまった。


 かなり踏み込んだ。


 私は便箋を見つめ、しばらく動けなかった。


 けれど、不思議と消したいとは思わなかった。


 怖い。


 でも、嫌ではない。


 むしろ、この言葉は私の中にちゃんとあった。


 最後に、家として前向きに相談すること、日程や同行者については父母と調整することを書き添えた。


 そして追伸。


 ――蜂蜜の焼き菓子の王座に臣下が必要かどうかは、今後の統治方針を見守りたいと思います。

 ――ただし、王が油断した場合、臣下が反乱を起こす可能性もありますのでご注意ください。


 書き終えた瞬間、自分で少し笑ってしまった。


 焼き菓子の臣下が反乱。


 もう何の話なのか、本当にわからない。


 けれど、セドリック様はきっと真面目に受け取って、少し笑ってくれる。


 そう思えるのが、嬉しかった。


 あなたの領地を知るということ。


 それは、ただ地図を見ることではない。


 セドリック様が大切にしているものへ、私が一歩近づくことなのだと思う。


 そして私は、その一歩を。


 少し怖がりながらも、踏み出してみたいと思っていた。

最後まで読んでいただきありがとうございます。

シャロンが、セドリックの大切な場所を知りたいと少し踏み出しました。

ハイレン領訪問も、少しずつ具体的になっていきそうです。

次回もよろしくお願いします。

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