第36話 聞いてくれる場所があるということ
読みに来てくださりありがとうございます。
今回はベルフォール家側のお話です。
セドリックの「聞ける場所でありたい」という言葉を受けて、シャロンが少しだけ自分の気持ちに向き合います。
楽しんでいただけたら嬉しいです。
セドリック様からの返事は、翌日の午前に届いた。
私はベルフォール家の小サロンで、ハイレン領の市の配置図をもう一度広げていた。
机の上には、薄紙に書いた確認事項。
横には、ノエル様の記録表についてまとめた覚え書き。
それから、まだ封を切っていないグランフェル家の手紙。
順番としては、手紙を先に読むべきだろう。
けれど、封筒を前にすると、なぜか一呼吸置きたくなる。
最近のセドリック様の手紙は、用件だけでは終わらない。
配置図。
記録表。
蜂蜜の焼き菓子。
そして、時々、私の内側に触れる言葉がある。
それが怖いわけではない。
ただ、少し身構える。
「お姉様」
窓辺から、フローラが静かに声をかけた。
「まだ開けないのですか?」
「今、開けるところよ」
「配置図を三回見直してから、同じことを言っています」
「数えないで」
「癖です」
「嫌な癖ね」
フローラは本を膝に置いたまま、ほんの少しだけ笑った。
リディアはレオンの相手をしている。
レオンは今日も布の玩具を握り、時折こちらへ手を伸ばしていた。
母は茶器を整えながら、何も言わずに見守っている。
私は観念して、封を切った。
手紙には、まず配置図の確認事項への礼が書かれていた。
ノエル様と共に記録表を見直したこと。
雨の日の荷車の停滞理由を、必須項目にはせず、備考欄の例として扱う案が出たこと。
井戸周辺の空き樽の位置を確認すること。
布商人と食料品の通りについては、午前と昼過ぎで分けて見ること。
私は思わず、手元の薄紙を引き寄せた。
「……いいわね」
小さく呟く。
「何がですか?」
フローラが尋ねる。
「ノエル様が、備考欄に書く例を増やす案を出したそうよ。必須項目を増やしすぎないために」
「現場の負担を考えているのですね」
「ええ」
「お姉様、嬉しそうです」
「良い案だからよ」
「はい」
フローラはそれ以上言わなかった。
けれど、その目は少しだけ笑っている。
私は手紙へ視線を戻した。
続いて、ノエル様が記録から市の流れを読むことを面白いと言った、と書かれていた。
それは、胸の奥に静かに届いた。
ノエル様とは、まだ直接会っていない。
けれど、彼が自分の得意なことに少しずつ気づき始めているのなら、それは良いことだと思った。
騎士を目指すことだけが、武門伯爵家の次男の道ではない。
記録を見る力も、流れを読む力も、領地を支える大事な力だ。
それを本人が少しでも面白いと思えるなら、きっと前へ進める。
「ノエル様は、記録から市の流れを読むのが面白いとおっしゃったそうよ」
私が言うと、リディアが振り返った。
「素敵ですね」
「あなたは本当に便利な言葉を持っているわね」
「でも、素敵です。自分の得意なことが見つかるのって、嬉しいことですもの」
リディアは何気なく言ったのだろう。
けれど、その言葉は思ったより深く胸に刺さった。
自分の得意なことが見つかる。
私にとって、領地を見ることは得意なことだった。
けれどそれはずっと、跡継ぎとして必要だから身につけたものだと思っていた。
だから、跡継ぎでなくなった時、それまで積み上げてきたものまで失った気がした。
けれど、違うのかもしれない。
跡継ぎでなくなっても、私が見てきたものは消えない。
考える力も、覚えた知識も、人の流れを見る癖も。
それは、役目から剥がれても残る。
私自身の力として。
「……そうね」
私は静かに答えた。
「得意なことがあるのは、悪くないわ」
母が、ほんの少しだけ目を細めた。
リディアはにこにこと笑う。
フローラは静かに本へ視線を戻したが、きっと聞いている。
私は手紙の続きを読んだ。
そこには、配置図以外のことも書かれていた。
――少しずつ話せることもあるのかもしれない、と書いてくださったことを、大切に受け取りました。
――急がせるつもりはありません。
――ただ、話したいと思われた時に、私がきちんと聞ける場所でありたいと思っています。
息が、少し止まった。
聞ける場所。
そんな言い方をされるとは思わなかった。
人ではなく、場所。
それが、妙に胸に残る。
私はこれまで、弱音を吐く場所をあまり持っていなかった。
父には、跡継ぎとして恥ずかしくない答えを出さなければと思っていた。
母には、しっかりした娘でいなければと思っていた。
妹たちには、頼れる姉でいなければと思っていた。
フィリップには、そもそも弱さを預ける気にはなれなかった。
だから私は、弱音を心の中で処理する癖がついた。
泣く前に考えろ。
甘える前に立て。
そうやってきた。
けれど、セドリック様は言う。
話したいと思った時に、聞ける場所でありたいと。
それは、逃げ場のようで。
けれど、逃げていいと言われているわけではなく。
ただ、荷物を下ろしてもよい場所を差し出されているようだった。
「お姉様?」
リディアの声がした。
私は顔を上げる。
「何?」
「今、少し泣きそうな顔をしていました」
「していないわ」
「していました」
「していない」
反射的に否定した。
けれど、リディアは黙らなかった。
「していました。でも、泣いてもいいと思います」
小サロンの空気が、静かになった。
私はリディアを見た。
明るくて、天真爛漫で、少しわがままで。
いつも私を簡単に揺らしてくる妹。
そのリディアが、今日はとても優しい顔をしていた。
「……泣かないわ」
「はい」
「でも」
言葉が喉で止まる。
それでも、少しだけ出した。
「少し、困っただけよ」
リディアは頷いた。
「はい」
それ以上、踏み込んでこなかった。
フローラも何も言わない。
母もただ静かに茶を注いでいる。
その沈黙が、ありがたかった。
話してもいい。
話さなくてもいい。
そういう空気が、ここにも少しずつ生まれている。
私は便箋をそっと置き、配置図へ視線を戻した。
「確認事項を、もう少し整理するわ」
「今からですか?」
リディアが尋ねる。
「ええ。こういう時は、手を動かした方が落ち着くの」
「お姉様らしいです」
「褒めている?」
「もちろんです」
私は薄紙を引き寄せ、ペンを取った。
まず、雨の日の荷車の件。
荷車が止まった理由を、必須項目にはしない。
その代わり、備考欄の記入例に入れる。
これは良い案だ。
次に、井戸周辺。
空き樽の位置。
煮込み料理の店の列。
水汲みの人。
それらが重なる時間帯を確認する。
最後に、布商人と食料品の通り。
午前と昼過ぎ。
客の流れ。
荷運びの時間。
通行幅。
書いているうちに、頭が少しずつ整っていく。
私はやはり、考えることが好きだ。
問題を切り分け、仮説を立て、確認項目に落とし込む。
そこには、私が跡継ぎでなくなっても変わらない私がいる。
そのことを、セドリック様はきっと知っている。
だからこそ、私に聞いてくる。
役に立つからだけではなく。
私が私として考えることを、尊重してくれている。
「お姉様」
フローラが静かに言った。
「今度は良い顔です」
「何の顔?」
「自分の力を思い出している顔です」
手が止まった。
フローラは本を開いたまま、こちらを見ている。
「あなた、時々本当に遠慮がないわね」
「必要な時だけです」
「刺しているの?」
「照らしています」
「それは新しい言い方ね」
私は小さく笑った。
少し前なら、こういう言葉にも身構えていた。
今は、少しだけ受け取れる。
夕方、私はセドリック様へ返事を書いた。
確認事項を受け取ってもらえたことへの礼。
ノエル様の案が良いと思ったこと。
記録表は、項目を増やすより、備考欄の使い方を整える方が現場に合っているだろうということ。
市の件は、現地確認の後に改めて見たいこと。
そして、少し迷った末に、あの言葉への返事を書いた。
――聞ける場所でありたいと書いてくださったことを、どう受け取ればいいのか、少し迷いました。
――けれど、嫌ではありませんでした。
――むしろ、少し安心したのだと思います。
書いた瞬間、胸の奥が熱くなる。
安心した。
私は、本当にそう思ったのだろう。
それを認めるのは怖い。
けれど、消さなかった。
続けて書く。
――今すぐ何かを話せるわけではありません。
――それでも、聞いてくださる場所があると思えることは、私にとって悪いことではないようです。
悪いことではない。
また逃げた言い方かもしれない。
けれど、今の私にはこれが精一杯だった。
追伸には、いつものように少しだけ軽いことを書く。
――蜂蜜の焼き菓子の王座については、長期政権を認めつつも、油断は禁物です。
――強い王ほど、挑戦者を呼び寄せるものですから。
書き終えて、私は思わず笑ってしまった。
蜂蜜の焼き菓子について、王座だの長期政権だの挑戦者だの。
いったい、何の手紙を書いているのか。
「お姉様」
リディアが笑っている。
「今、完全に楽しそうでした」
「否定はしないわ」
自然にそう言えた。
その瞬間、リディアの顔がぱっと明るくなる。
フローラも小さく笑った。
母は何も言わない。
ただ、私の前に温かいお茶を置いた。
「ありがとう、お母様」
そう言うと、母は一瞬だけ目を丸くした。
それから、柔らかく微笑む。
「どういたしまして」
聞いてくれる場所があるということ。
それはきっと、セドリック様だけではない。
この家にも、少しずつでき始めている。
私はそのことを、まだうまく言葉にはできない。
けれど、今日の手紙には少しだけ書けた。
それだけでも、今は十分なのかもしれなかった。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
シャロンにとって、聞いてくれる場所があることはまだ少し慣れないようです。
けれど、少しずつ安心できる場所も増えてきました。
次回もよろしくお願いします。




