第35話 確認事項は、信頼の形にもなります
シャロン嬢からの返事は、朝の訓練を終えた直後に届いた。
セドリックは着替えを済ませ、小書斎へ向かうと、机の上に置かれた封筒を見つけた。
ベルフォール家の封蝋。
それを見ただけで、少しだけ胸の奥が静かになる。
不思議なものだ。
以前は、手紙とは用件を確認するものだった。
今は違う。
そこに彼女の言葉があると思うだけで、封を切る手が少し慎重になる。
セドリックは椅子に腰を下ろし、封を開けた。
書き出しは、いつも通り丁寧だった。
エミリアの手紙を、フローラ嬢が喜んでいたこと。
ノエルの記録表について、実際に使いながら直していけばよいので、今の形に自信を持ってほしいということ。
そして、ハイレン領の市の配置図について、三つの確認事項を書き出したこと。
セドリックは、その部分で背筋を伸ばした。
――現時点で気になった点を、三つほど書き出しました。
――ただし、現地を見ていないため、あくまで仮説です。
――根拠のない断定は減点ですので、次回は確認事項としてお伝えします。
「……減点」
思わず小さく呟いた。
シャロン嬢らしい。
断定しない。
けれど、曖昧にも流さない。
確認すべき点をきちんと分ける。
その姿勢は、領地を見てきた者のものだった。
続く便箋には、簡潔に三つの項目が書かれていた。
一つ目。
雨の日に水が溜まりやすい場所と、荷車の停留場所が近すぎる可能性。
二つ目。
井戸周辺に人が集まりやすく、昼前の時間帯に通行の妨げになっている可能性。
三つ目。
布商人の通りと食料品の通りが交差しており、時間帯によって客と荷運びがぶつかる可能性。
どれも、配置図だけで断定できるものではない。
けれど、見るべき場所は明確だった。
セドリックはすぐに机の端に置いていた記録表の写しを取り出した。
天候。
村名。
荷の種類。
到着時刻。
止まった場所。
道の状態。
遅れた理由。
シャロン嬢の確認事項と、ノエルの記録表がつながる。
これは、使える。
「兄上」
扉の向こうから声がした。
「入ってもよろしいでしょうか」
「ああ」
入ってきたのはノエルだった。
手には、書き直した記録表の束を持っている。
緊張しているようだが、以前よりも目が逃げていない。
「ちょうどよかった」
セドリックは言った。
「シャロン嬢から、記録表について言葉をいただいた」
ノエルは肩をわずかに強張らせた。
「何と……?」
「実際に使いながら直していけばよい。今の形に自信を持ってほしい、と」
ノエルは、しばらく黙った。
それから、ゆっくりと息を吐く。
「自信を、持って」
「ああ」
「シャロン嬢が、そうおっしゃったのですか?」
「そうだ」
ノエルは手元の紙を見下ろした。
十四歳の少年の肩には、武門伯爵家の次男という名前が乗っている。
兄に憧れ、騎士を目指そうとして、けれど自分の向き不向きに迷っている。
そんな弟が、記録表という別の形で少しずつ自分の場所を見つけようとしている。
セドリックは、その変化を急かしたくなかった。
ただ、見落としたくもなかった。
「それから」
セドリックは便箋を机に置いた。
「配置図について、三つの確認事項をいただいた。お前の記録表と合わせて見たい」
「私の記録表と、ですか」
「ああ。こちらへ」
ノエルは少し驚いたように近づいた。
机の上に配置図を広げ、シャロン嬢が指摘した箇所に小さな印をつけていく。
「一つ目は、雨の日に水が溜まる場所と荷車の停留場所だ」
「はい」
「記録表の中に、雨の日に荷が止まった場所があるだろう」
「あります。こちらです」
ノエルはすぐに紙束から該当する写しを抜き出した。
手際がよい。
セドリックは内心で感心した。
「ここか」
「はい。この日、南門から入った麦の荷が、広場脇で一度止まっています。理由は、前の荷車が動かなかったため、とあります」
「前の荷車が動かなかった理由は?」
「書かれていません。そこは、まだ任意項目に入れていませんでした」
「では、追加するか?」
ノエルは少し考えた。
「いえ。最初から項目を増やしすぎると、記録する者の負担になると前におっしゃいましたよね」
セドリックは弟を見た。
ノエルは続ける。
「ただ、備考欄に書く例として、『前方の停滞理由』を加えるのはどうでしょう。必須ではなく、気づいた時だけ書いてもらう形で」
セドリックはゆっくり頷いた。
「いいと思う」
ノエルの顔がわずかに明るくなった。
「本当ですか」
「ああ。シャロン嬢も、現場の負担を増やしすぎることは避けるだろう」
「はい」
ノエルは小さく頷いた。
以前なら、兄に褒められても戸惑うだけだったかもしれない。
今は、少し受け取れている。
それがわかった。
「二つ目は井戸周辺だ」
セドリックは配置図を指す。
「昼前に人が集まりすぎている可能性がある」
「水を汲む人と、昼食の支度をする店が重なる時間ですね」
「お前はどう見る」
ノエルは地図をじっと見つめた。
「井戸の隣に、煮込み料理を出す店が二つあります。人が集まるのは当然かもしれません」
「移動させるべきか?」
「すぐには難しいと思います。店の位置には商人側の都合もありますし、常連の客もいるでしょうから」
「では?」
「井戸の横に荷置きのための空き樽が置かれていると、以前の記録にありました。それを少し離せば、人の流れが変わるかもしれません」
セドリックは記録表を見る。
確かに、小さく書かれていた。
井戸横、空き樽二つ。
通行やや狭し。
些細な記録だ。
だが、こうして見ると意味を持つ。
「ノエル」
「はい」
「よく見ているな」
ノエルは目を見開いた。
「私が、ですか」
「ああ。記録をただ写しているだけではない。ちゃんとつなげて見ている」
ノエルは困ったように視線を落とした。
けれど、その顔には嬉しさがあった。
「シャロン嬢の確認事項があったからです」
「それでも、見つけたのはお前だ」
ノエルは少しだけ黙った。
「……はい」
その返事は小さかったが、逃げていなかった。
三つ目は、布商人の通りと食料品の通りの交差。
これは少し複雑だった。
人の流れだけでなく、荷の時間帯も関わる。
「これは現地で確認した方がよさそうだ」
セドリックが言うと、ノエルも頷いた。
「はい。記録表だけでは、客の流れまではわかりません」
「では、次に管理人へ確認させる」
「できれば、午前と昼過ぎで分けて見た方がよいと思います」
「理由は?」
「食料品の客は午前に多く、布商人は昼過ぎに人が増える可能性があります。時間帯を分けないと、混雑の原因が見えづらいかと」
セドリックは弟を見た。
ノエルは、言ってから少し不安そうになった。
「すみません。推測です」
「いや。確認すべき推測だ」
そう言うと、ノエルは少し安心したように息を吐いた。
「シャロン嬢なら、根拠のない断定は減点、とおっしゃるでしょうか」
「言うだろうな」
二人は思わず顔を見合わせた。
セドリックが小さく笑うと、ノエルもつられて少しだけ笑った。
その時、扉の外から声がした。
「楽しそうね」
母アメリアだった。
いつの間にか、扉の近くに立っている。
「母上」
「入っても?」
「もちろんです」
アメリアは小書斎へ入ると、机の上の配置図を見た。
「シャロン嬢から?」
「はい。三つほど確認事項をいただきました」
「断定ではなく、確認事項なのね」
「はい」
「シャロン嬢らしいわ」
アメリアは微笑んだ。
それから、ノエルへ視線を向ける。
「あなたも一緒に見ていたのね」
「はい」
「どうだった?」
ノエルは少し考えた。
「……面白かったです」
言ってから、自分でも驚いたような顔をした。
アメリアの表情が柔らかくなる。
「そう」
「剣の訓練でうまくいった時とは、少し違います。でも、記録から何かがわかるのは……面白いです」
「それは良いことね」
「良いこと、でしょうか」
「ええ。面白いと思えることは、大事にした方がいいわ」
ノエルは静かに頷いた。
セドリックは、弟の横顔を見た。
騎士になることだけが、グランフェル家に生まれた者の道ではない。
それを、ノエル自身が少しずつ受け入れられるようになればいい。
急がずに。
けれど、止まらずに。
「それで」
アメリアは今度はセドリックへ視線を向けた。
「手紙には、配置図以外のことも書いてあったのでしょう?」
やはり母には見抜かれている。
セドリックは一瞬だけ迷い、それから便箋へ視線を落とした。
「私の言葉を大切に受け取りたいと書いたことへの返事がありました」
「何と?」
「まだうまく言葉にできないことも多いが、急がずに聞いてくれるのなら、少しずつ話せることもあるのかもしれない、と」
アメリアは静かに目を細めた。
ノエルも、どこか慎重な顔になる。
「そう」
母は柔らかく言った。
「シャロン嬢にとっては、とても大きな一文ね」
「はい」
セドリックは頷いた。
わかっている。
彼女にとって、自分の内側を言葉にすることは簡単ではない。
弱さや迷いを見せることも、まだ怖いはずだ。
それでも、少しずつ話せるかもしれないと書いてくれた。
その一文を、軽く扱うことはできない。
「待つことと、何もしないことは違うわよ」
アメリアが静かに言った。
セドリックは母を見る。
「はい」
「急かさない。でも、受け取る手はちゃんと差し出しておく。あなたがするべきなのは、きっとそういうことね」
「心得ます」
アメリアは満足そうに頷いた。
「それから、蜂蜜の焼き菓子は?」
「長期政権の可能性を認める、と」
母は一瞬きょとんとして、それから笑った。
「まあ。何の話かと思えば」
「挑戦者の探索は歓迎するそうです」
「ふふ。楽しそうね」
「はい」
セドリックは素直に答えた。
「楽しいです」
言った後で、自分でも少し驚いた。
母が目を細める。
「それでいいのよ」
その日の夜、セドリックは返事を書いた。
配置図の確認事項への礼。
ノエルと共に記録表を見直し、いくつか追加で確認したい点が見えたこと。
現場へ問い合わせる際には、断定ではなく確認事項として扱うこと。
そして、ノエルが記録から市の流れを読むことを面白いと言ったことも書いた。
――シャロン嬢の確認事項のおかげで、ノエルも自分の記録が何につながるのかを感じられたようです。
――ありがとうございます。
そこまで書いて、少し手を止める。
礼だけでは足りない気がした。
彼女の言葉は、ノエルに届いた。
それを伝えるだけでなく、自分が何を思ったのかも返したい。
セドリックは少し考え、続けて書いた。
――少しずつ話せることもあるのかもしれない、と書いてくださったことを、大切に受け取りました。
――急がせるつもりはありません。
――ただ、話したいと思われた時に、私がきちんと聞ける場所でありたいと思っています。
書いてから、息を吐く。
これは、今の自分にできる返事だった。
最後に、追伸を書く。
――蜂蜜の焼き菓子の王座については、挑戦者の探索を続けます。
――ただし、長期政権を崩すには、相当な実力者が必要になりそうです。
封をする前に、もう一度文面を読み返す。
手紙を重ねるたび、少しずつ言葉が変わっていく。
領地の話。
家族の話。
焼き菓子の話。
そして、彼女自身の話。
それらは別々に見えて、すべてシャロン嬢へつながっている。
確認事項は、信頼の形にもなります。
断定せず。
急がず。
それでも、確かに見ようとする。
彼女がそうしてくれるから、自分もまた、彼女を丁寧に見ていきたいと思うのだった。




