第29話 静かな妹は、興味を隠しきれません
読みに来てくださりありがとうございます。
今回は次の茶会に向けて、ベルフォール家側で少し準備をするお話です。
フローラとエミリア、そして蜂蜜の焼き菓子再比較も近づいてきました。
楽しんでいただけたら嬉しいです。
セドリック様からの手紙を読み終えた時、私はまず蜂蜜の焼き菓子について考えていた。
市の配置図。
ノエル様の記録表の写し。
エミリア様とフローラの顔合わせ。
本来なら、そちらの方が重要なはずだ。
だというのに、最後の追伸に書かれていた蜂蜜の焼き菓子二種類という言葉が、妙に頭に残っている。
前回のものへの評価が高かったため、新しい候補には少々不利な比較になるかもしれません。
律儀だ。
本当に、律儀な方だ。
そして、少しだけおかしい。
「お姉様」
小サロンの向かいで、フローラが静かに声をかけた。
「何?」
「今、焼き菓子の顔をしています」
「焼き菓子の顔とは何よ」
「楽しみだけれど、楽しみだと認めたくない顔です」
「そんな顔の分類を作らないで」
私は手紙を丁寧に折りたたんだ。
リディアは長椅子の上でレオンの相手をしている。
レオンは淡い金髪を揺らしながら、布の玩具を握ってきゃっきゃと笑っていた。
母は少し離れた席で刺繍をしているが、もちろんこちらの会話は聞いている。
この家の女性たちは、静かにしていても会話を聞き逃さない。
「蜂蜜の焼き菓子二種類を持ってきてくださるそうよ」
私が言うと、リディアがぱっと振り返った。
「まあ! 再比較ですね!」
「あなた、レオンを落とさないでね」
「落としません。ね、レオン」
「あー」
「ほら、レオンも楽しみだそうです」
「赤子に焼き菓子の比較を理解させないで」
リディアは楽しそうに笑う。
フローラは本を閉じ、薄い灰紫の瞳をこちらへ向けた。
「蜂蜜の焼き菓子の他には、何と書かれているのですか?」
「市の配置図を持参されるそうよ。ノエル様の記録表の写しも預かっていると。それから、エミリア様も同席されるかもしれないわ」
「なるほど」
フローラは少しだけ目を細めた。
「配置図と記録表と焼き菓子と、エミリア様ですね」
「並べると不思議な茶会ね」
「お姉様らしい茶会です」
「どのあたりが?」
「領地相談と甘いものと家族の顔合わせが同時に進むところです」
「……否定できないのが悔しいわ」
リディアは嬉しそうに身を乗り出す。
「フローラ、エミリア様に会うの楽しみなのね!」
「リディアお姉様、楽しみという言葉は少し強いです」
「じゃあ、かなり興味がある?」
「それなら近いです」
「ほら、楽しみじゃない」
「少し違います」
この二人の会話は、最近似た形を何度も聞いている気がする。
けれど、フローラがここまで誰かに興味を示すのは珍しい。
いつもなら、他家の令嬢の話など「そうですか」で終わる。
エミリア様は、会う前からすでにフローラの中で少し特別な存在になりつつあるのかもしれない。
「フローラ」
私は尋ねた。
「エミリア様に会ったら、何を話したいの?」
「本の話から入るのが無難かと」
「無難ね」
「初対面でいきなり兄姉の観察報告を交換するのは、少し礼儀に欠けますので」
「するつもりはあったのね」
「いずれは」
「いずれ…」
私は扇を開いた。
これは、非常に危険な組み合わせかもしれない。
リディアが目を輝かせる。
「兄姉の観察報告って面白そう!」
「あなたは参加しないで」
「どうしてですか?」
「勢いがつきすぎるからよ」
「ひどいです、お姉様」
「事実よ」
フローラが静かに頷いた。
「リディアお姉様が加わると、報告会ではなく発表会になります」
「フローラまで」
「華やかにはなると思います」
「褒めている?」
「半分くらい」
リディアは少し考えてから、にこりと笑った。
「では受け取ります!」
「強いわね」
私は小さくため息をついた。
母がそこで、ふふ、と笑った。
「楽しそうでいいわね」
「お母様、これを楽しそうで片づけてよいのでしょうか」
「ええ。家族が増えるかもしれない時に、こうして話題が増えるのは悪いことではないわ」
家族が増えるかもしれない。
その言葉に、胸の奥が静かに揺れた。
セドリック様の家族。
グランフェル家。
アメリア様。
ギルバート伯爵。
エミリア様。
ノエル様。
まだ全員と深く関わったわけではない。
ノエル様には会ってもいない。
けれど、それぞれの名前が少しずつ私の日常に入ってきている。
怖くないわけではない。
けれど、以前のように扉を閉めたくなるほどでもない。
「……そうですね」
私は小さく答えた。
「悪いことでは、ないと思います」
母が手を止め、少しだけ驚いたようにこちらを見た。
リディアも笑顔のまま固まる。
フローラは、静かに瞬きをした。
「何ですか…?」
母は穏やかに微笑んだ。
「そう言えるようになったのね、と思って」
「大げさです」
「大げさではないわ」
母の声は柔らかかった。
それ以上言われると、また胸が詰まりそうになる。
私は咳払いをして、話題を戻した。
「セドリック様は市の配置図を持参される…」
「お仕事の顔になりました」
リディアが言った。
「今度は仕事の話よ」
「でも、少し嬉しそうです」
「仕事の話が好きなのだから当然でしょう」
「セドリック様と話す仕事の話が、ですよね」
「リディア」
「はい、少し黙ります」
「少しではなく、しっかり黙りなさい」
リディアは両手で口を押さえた。
だが、目がまったく黙っていない。
フローラが静かに言う。
「市の配置図を見るなら、お姉様はかなり集中するでしょうね」
「そうね」
「蜂蜜の焼き菓子も同時に出るなら、切り替えが大変そうです」
「何の切り替え?」
「領地相談の顔と、焼き菓子の顔です」
「だから焼き菓子の顔を作らないで」
フローラはほんの少しだけ笑った。
「エミリア様も、そのあたりを見るのが上手そうです」
「あなたたち、初対面から私を観察対象にするつもり?」
「お姉様だけではありません。セドリック様もです」
「もっと悪いわ」
母がとうとう声を立てて笑った。
リディアもレオンを抱えたまま笑う。
レオンは何が楽しいのかもわからず、一緒に笑った。
小サロンに、明るい空気が広がる。
少し前まで、私はこういう場にいても、どこか一歩引いていた。
リディアが笑う。
フローラが静かに突く。
母が微笑む。
レオンが無邪気に声を上げる。
それを見て、私は「自分は違う」と思っていた。
跡継ぎとして育てられた私。
甘えることが下手な私。
役目を失って、立ち位置を見失った私。
けれど今は、少しだけ違う。
ここにいてもいいのだと、思える瞬間がある。
それはきっと、セドリック様とのやり取りだけが理由ではない。
家族が、少しずつ私へ手を伸ばしてくれていたことにも、私がようやく気づき始めたからだ。
レオンが、また小さな手を伸ばしてきた。
「お姉様、レオンが呼んでいますよ」
リディアが言う。
「呼んでいるのではなく、手を伸ばしているだけよ」
「同じです」
「違います」
そう言いながらも、私は立ち上がった。
レオンのそばへ行くと、小さな手が私の指を掴む。
最近、この感触にも慣れてきた。
昔なら、この小さな手を見るたびに胸が苦しかった。
この子のせいではないとわかっていても、自分の未来を奪った存在のように思えてしまった。
けれど今は、少しだけ違う。
レオンは私の弟だ。
ただ、それだけのことを、以前より自然に受け止められるようになっている。
「あなたも、いつか蜂蜜の焼き菓子を食べるのかしらね」
「あー」
「まだ早いわ」
リディアが笑う。
「セドリック様が知ったら、レオン用の甘くない焼き菓子まで探してくださるかもしれませんね」
「本当にやりそうだから困るわ」
言ってから、私は少しだけ笑ってしまった。
セドリック様なら、きっと真面目に考える。
赤子でも食べられる柔らかな菓子はあるだろうか、と。
その姿を想像して、胸の奥が温かくなる。
「お姉様」
フローラが静かに言った。
「今の笑い方は、隠しきれていません」
「隠す必要があったかしら」
言ってから、私は自分で驚いた。
リディアが大きく目を見開く。
母が手元の刺繍を止める。
フローラも、ほんの少しだけ表情を動かした。
しまった。
今のは、あまりにも自然に出た。
「……何よ」
「いえ」
フローラが小さく首を横に振る。
「良いと思います」
「何が?」
「隠さなくてもよいと思えることが」
言葉に詰まった。
母が、何も言わずに微笑んでいる。
リディアも、いつもなら騒ぐところを、今日は少しだけ静かに笑っていた。
こういうところが、困る。
家族は時々、私が逃げられないように、優しく周りを囲む。
それが以前は苦しかった。
けれど今は、少しだけ温かい。
夕方になり、私はセドリック様への返事を書いた。
次の茶会で、フローラもエミリア様に挨拶できればと思うこと。
市の配置図とノエル様の記録表の写しを拝見できるなら、ありがたいということ。
蜂蜜の焼き菓子二種類については、厳正に比較すること。
そこまで書いて、少し手を止めた。
そして、もう一文を加える。
――セドリック様が、私の家族にも丁寧に向き合ってくださることを、ありがたく思っています。
嬉しい、と書くより少し逃げた気がする。
けれど、これはこれで本当だった。
ありがたい。
嬉しい。
少し怖い。
全部が混ざっている。
その全部を一度に書けるほど、私はまだ器用ではない。
追伸には、こう書いた。
――なお、蜂蜜の焼き菓子の比較において、前回のものが有利であることは承知しています。
――それでも新しい候補に勝機があるかどうか、慎重に見極めたいと思います。
書き終えたところで、フローラが小さく言った。
「お姉様」
「何?」
「今、少し楽しそうな顔でした」
「……焼き菓子の話よ」
「はい」
「それ以上言わないで」
「まだ何も言っていません」
「言う前の顔だったわ」
フローラは少しだけ笑った。
「お姉様も、顔を読むのが上手くなりましたね」
「あなたたちのせいよ」
私は手紙を封じた。
次に会う日は、きっと少し賑やかになる。
市の配置図。
蜂蜜の焼き菓子。
フローラとエミリア様の初対面。
考えることは多い。
けれどその中に、面倒だという気持ちはなかった。
静かな妹は、興味を隠しきれません。
そして私もまた、楽しみを隠しきれなくなりつつあるのかもしれなかった。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
フローラもシャロンも、それぞれ少しずつ楽しみを隠しきれなくなってきたようです。
次回もよろしくお願いします。




