第20話 知りたいと言われると、隠したいものが減っていきます
読みに来てくださりありがとうございます。
今回はセドリックからの手紙を受け取ったシャロンと、フローラやレオンたちとのお話です。
少しずつ家族の空気も変わっていく様子を楽しんでいただけたら嬉しいです。
セドリック様からの手紙は、翌日の午前に届いた。
私はベルフォール家の小サロンで、その封筒を前にしていた。
朝の読書や刺繍に使われる家族用の部屋で、今は私一人だけだった。
窓際には長椅子があり、低い机の上には読みかけの本と茶器が置かれている。
最近、グランフェル家の封蝋を見るだけで、胸の奥が少し落ち着かなくなる。
以前の私なら、手紙とは用件を確認するものだった。
誰から来たか。
何についてか。
返事が必要か。
それだけを考えればよかった。
けれど今は違う。
封を切る前から、そこにどんな言葉が書かれているのかを考えてしまう。
それが少し悔しい。
「お姉様」
扉が控えめに叩かれた後、静かな声がした。
「入ってもいいかしら」
「どうぞ」
入ってきたのは、フローラだった。
淡い灰銀の髪が肩に流れ、薄い灰紫の瞳が机の上の封筒へ向いた。
相変わらず、静かな顔で人の内側まで見透かしてきそうな妹である。
「まだ開けていないのですね」
「今、開けるところよ」
「封筒を前にして、戦略を練っているような顔ですよ」
「手紙を読むのに戦略は必要ないわ」
「では、なぜそんなに警戒しているのですか?」
「警戒ではなく、心の準備よ」
「ほとんど同じでは?」
「違うわ」
フローラは少しだけ口元を動かした。
笑った、のだと思う。
リディアのように明るく騒がない分、フローラの言葉は逃げ場が少ない。
鋭い針を、絹の布に包んで差し出してくるような妹だ。
私は観念して、手紙の封を切った。
書き出しは丁寧だった。
先日の焼き菓子の比較についての礼。
蜂蜜の焼き菓子を私が気に入ったことが嬉しかった、ということ。
ノエル様の記録表がギルバート伯爵に認められたこと。
そこまでは、穏やかに読めた。
だが、次の部分で指先が止まった。
――次回、市の配置図をお持ちできればと思います。
――ただ、それだけではなく、シャロン嬢が話してくださったミルディア領の春市についても、改めて伺えたら嬉しいです。
――助言をいただきたいからだけではありません。
――あなたが大切にしてきたものを、もっと知りたいと思っています。
私は、しばらく便箋を見つめた。
あなたが大切にしてきたものを、もっと知りたい。
その一文が、目に残って離れない。
領地の話を聞きたい。
市のことを教えてほしい。
それなら、まだわかる。
助言が欲しい。
知識を借りたい。
そういうことなら慣れている。
けれど、そうではないと書かれていた。
助言をいただきたいからだけではありません。
逃げ道を塞がれた気がした。
私は、自分の力が役に立つなら話せる。
必要とされるなら、考えられる。
求められれば、応えられる。
けれど、私が大切にしてきたものを知りたいと言われると、どうすればいいのかわからない。
それは仕事ではない。
報告でもない。
評価を受けるための答えでもない。
もっと内側のものだ。
「お姉様」
フローラが静かに呼んだ。
「何」
「今、かなり困った顔をしています」
「手紙を読んでいただけよ」
「普通の手紙でそこまで守りを固める人は少ないと思います」
「守り?」
「はい。読んでいるだけなのに、扇を構えそうな顔です」
私は手元を見た。
確かに、いつの間にか扇へ指が伸びていた。
まったく、油断ならない。
「……セドリック様は」
私は言いかけて、少し止まった。
フローラは急かさない。
ただ静かに待っている。
「ミルディア領の春市について、改めて聞きたいと書いているわ」
「良いのではありませんか」
「助言が欲しいからだけではないそうよ」
「では?」
「私が大切にしてきたものを、もっと知りたいと」
声に出した瞬間、胸の奥がまた落ち着かなくなった。
フローラは数秒黙った。
そして、淡々と言った。
「それはかなり強いですね」
「やっぱりそう思う?」
「はい。お姉様にとっては、焼き菓子十箱分くらい強いです」
「なぜ焼き菓子で換算するの」
「最近の基準かと思いまして」
「やめなさい」
思わずそう返すと、フローラは少しだけ笑った。
空気がわずかに軽くなる。
それから彼女は、本を膝の上に置いて続けた。
「でも、セドリック様はよく見ていますね」
「何を?」
「お姉様が、役に立つ話ならできるけれど、大切な話になると逃げるところです」
「逃げていないわ」
「では、少し距離を取るところです」
「言い直しても刺さるわよ」
「刺しています」
「妹としてどうなの」
「必要な時だけです」
私は額に手を当てた。
フローラは本当に容赦がない。
けれど、不思議と腹は立たなかった。
リディアの明るさがこちらの腕を引くものだとしたら、フローラの言葉は、こちらが隠しているものを静かに照らしてくる。
どちらも逃げづらい。
「お姉様は、ミルディア領の話をする時、少し声が変わります」
フローラが言った。
「そうかしら」
「はい。説明しているように見えて、本当は思い出を撫でているように聞こえます」
言葉が出なかった。
思い出を撫でる。
そんなふうに考えたことはなかった。
ミルディア領は、私が跡継ぎとして育てられた場所だ。
誇りであり、傷でもある。
失った未来の象徴でもある。
けれど、それだけではなかったのかもしれない。
春市のざわめき。
焼きたてのパンの匂い。
荷車を引く農夫の声。
布を広げる商人たち。
迷子になって泣く子ども。
父に出した改善案。
採用されて、翌年少しだけ人の流れが良くなった場所。
私は、それらを覚えている。
役目だったからだけではない。
たぶん、本当に大切だったからだ。
「……セドリック様は、そこを知りたいと言っているのね」
「そうだと思います」
「困るわ」
「なぜですか」
「そんなものを知られたら、隠したいものが減るもの」
言ってしまってから、私は口を閉じた。
フローラは、少しだけ目を細めた。
「隠したいのですか」
「……わからない」
「知られたい気持ちもあるのでは?」
「あなた、本当に容赦がないわね」
「お姉様がわからないふりをする時は、少し強めに言った方が届きます」
「経験則?」
「はい」
私は深く息を吐いた。
知られたくない。
それは本当だ。
大切にしてきたものを話すということは、傷に近い場所も見せるということだから。
けれど、知ってほしいと思っている自分もいる。
セドリック様なら、私の大切なものを雑に扱わないのではないか。
そう思い始めている自分がいる。
それが、怖い。
その時、廊下の方から明るい声が聞こえた。
「シャロンお姉様、フローラ!」
リディアの声だった。
続いて、侍女に抱かれたレオンが部屋へ入ってくる。
淡い金髪の小さな頭。
青灰色の丸い瞳。
ふっくらした頬。
レオンは私を見るなり、小さな手を伸ばした。
「あー」
「レオン」
私は思わず立ち上がった。
侍女からレオンを受け取ると、彼は私の指をぎゅっと握った。
力は弱い。
けれど、妙に離れない。
この子は、何も知らない。
自分が生まれたことで、私の道が変わったことも。
私がその事実にどれだけ戸惑ったかも。
それでも、この子を憎みきれなかったことも。
何も知らないまま、ただ私の指を握っている。
「レオンは、シャロンお姉様のことが好きですね」
リディアが笑った。
「赤子の好意を勝手に解釈しないで」
「でも、シャロンお姉様を見ると手を伸ばします」
「私の髪が珍しいだけかもしれないわ」
そう言った瞬間、レオンが私の銀髪へ手を伸ばした。
小さな指が髪を掴む。
「ほら」
「お姉様」
フローラが静かに言った。
「その理屈だと、レオンはお姉様の髪もお姉様も好きということになります」
「なぜそうなるの」
「分類上」
「あなたまで分類しないで」
リディアが笑い、フローラも小さく口元を緩めた。
レオンは何もわかっていない顔で、私の髪を握ったまま楽しそうにしている。
「痛くないようにしてちょうだい」
私がそう言うと、レオンは返事の代わりに、ふにゃっと笑った。
胸の奥が、少しだけ柔らかくなる。
この子は、私から何かを奪おうとして生まれてきたわけではない。
ただ、ここにいる。
そして私は、そのことを少しずつ受け入れ始めているのかもしれない。
「お姉様」
リディアが手紙へ視線を向けた。
「セドリック様から、何て?」
「ミルディア領の春市の話を聞きたいそうよ」
「素敵ですね!」
「あなたはすぐ素敵と言うわね」
「だって、お姉様が大切にしているものを聞きたいってことでしょう?」
リディアは当然のように言った。
私は少しだけ黙る。
リディアは手紙の文面を知らない。
それでも、私の言葉だけでそう受け取った。
フローラが静かにこちらを見る。
「ほら」
「何が、ほら、なの」
「お姉様以外には、わりとわかりやすいのです」
「何が」
「セドリック様が、お姉様を知りたがっていることです」
リディアが頷く。
「領地のことだけじゃなくて、お姉様のことを」
私はレオンを抱いたまま、返答に詰まった。
腕の中のレオンが、私の指をまた握る。
逃げるな、と言われた気がした。
もちろん、赤子にそんな意図はない。
ないけれど、都合よくそう思ってしまった。
「……返事を書くわ」
私は静かに言った。
リディアの顔がぱっと明るくなる。
フローラは、満足そうに小さく頷いた。
「すぐに?」
「ええ」
「何を書くんですか?」
リディアが尋ねる。
私は少し考えた。
ミルディア領の春市について。
セドリック様に何を話すか。
何を隠すか。
何を見せてもいいと思えるか。
すべてを一度に書く必要はない。
でも、少しだけなら。
「春市の話を、少しだけ」
「少しだけ」
フローラが繰り返した。
「お姉様の少しだけは、便箋三枚くらいですね」
「二枚に収める努力はするわ」
「努力目標ですね」
「あなた、本当に言うようになったわね」
「昔からです」
「そうだったかしら」
「お姉様が聞く余裕がなかっただけです」
その言葉は、静かに胸へ落ちた。
以前の私は、妹たちの言葉をちゃんと聞けていただろうか。
リディアの明るさを、ただ無邪気だと思って。
フローラの鋭さを、少し困った癖だと思って。
レオンの存在からは、なるべく目を逸らして。
私は家族の中にいて、家族を見る余裕がなかったのかもしれない。
「……そうかもしれないわね」
そう呟くと、フローラがほんの少し驚いた顔をした。
リディアも目を丸くする。
「何よ」
「いえ」
フローラは首を横に振った。
「今のお姉様は、少し柔らかいなと思いました」
「また顔?」
「声です」
「次は声なの」
「はい」
私はため息をついた。
けれど、嫌ではなかった。
机に向かい、便箋を広げる。
レオンは侍女に戻すつもりだったが、なぜか私の袖を握って離さなかった。
「レオン、書けないわ」
「あー」
「返事になっていないわよ」
リディアが笑う。
「レオンも応援しています」
「赤子にまで応援される縁談って何なのかしら」
「素敵な縁談です」
「あなたの中では全部素敵で片づくのね」
結局、レオンを膝の上に座らせたまま、私は手紙を書き始めた。
書き出しは礼から。
焼き菓子の比較について。
ノエル様の記録表が認められたことへの祝意。
市の配置図を見せていただけるなら、こちらも春市の話をできる範囲で用意すること。
そこまで書いてから、少し手を止めた。
そして、ゆっくりと続ける。
――ミルディア領の春市は、私にとって、跡継ぎとして学んだ場所であり、大切な記憶の多い場所でもあります。
書いた瞬間、胸の奥が少し痛んだ。
でも、消さなかった。
レオンが膝の上で、私の指に触れる。
小さな手。
何も知らない手。
私はその手を見てから、もう一文を書いた。
――うまくお話しできるかはわかりませんが、セドリック様になら、少しずつお話ししてもよいのかもしれないと思っています。
書いてしまった。
私はしばらくその一文を見つめた。
これは、踏み込みすぎただろうか。
だが、フローラの言葉が頭に残っている。
知られたい気持ちもあるのでは。
あるのだと思う。
だから、書いた。
「お姉様」
リディアが小声で言う。
「何」
「今、すごく大事なことを書いた顔をしていました」
「見ないで」
「見ていません。顔です」
「また顔」
私は扇を取りたかったが、膝の上にレオンがいるので動けなかった。
フローラが、静かに笑った。
「レオン、良い仕事をしています」
「赤子に仕事を与えないで」
レオンは、きゃっ、と声を上げた。
その笑い声につられて、リディアも笑う。
フローラも少しだけ笑う。
私は手紙を見下ろしながら、胸の奥の痛みと温かさを同時に感じていた。
大切なものを話すのは怖い。
けれど、少しだけ話してみたい。
そう思える相手がいることは、たぶん悪いことではない。
手紙の最後に、私は追伸を書いた。
――蜂蜜の焼き菓子については、次回の比較材料も確認いたします。
――ただし、前回のものを超えるには相当の努力が必要かと思われます。
書き終えると、フローラが小さく言った。
「最後に、少し安心した顔をしましたね」
「顔だけでそこまで言わないで」
「文章を見ていませんから、顔で判断するしかありません」
「それはそれで困るわ」
リディアがくすくす笑い、レオンが私の袖を握る。
私は便箋を丁寧に折りたたんだ。
知りたいと言われると、隠したいものが減っていきます。
けれど、隠したいものがひとつ減るたびに、息がしやすくなることもあるのかもしれない。
そんなことを、少しだけ思った。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
今回はフローラの静かな一言と、レオンの無邪気さがシャロンの背中を少し押してくれた回でした。
シャロンも少しずつ、大切なものを話す準備ができてきたようです。
次回もよろしくお願いします。




