第19話 焼き菓子の報告は、なぜか家族会議になりました
読みに来てくださりありがとうございます。
今回は焼き菓子比較会の後、グランフェル家側のお話です。
家族との会話の中で、セドリックも少しずつ自分の気持ちに向き合っていきます。
楽しんでいただけたら嬉しいです。
ベルフォール家から戻ったセドリックは、持ち帰った空の箱を見下ろしていた。
蜂蜜。
胡桃。
林檎。
三種類の焼き菓子を入れていた箱は、見事に軽くなっている。
比較材料として持参したものだ。
そう説明したところ、シャロン嬢は扇で口元を隠しながら、実に真面目な顔で受け取ってくれた。
そして、ひとつずつ味を確かめた。
蜂蜜は、セドリックが一番好きなもの。
胡桃は、騎士団で好まれそうなもの。
林檎は、リディア嬢が喜びそうなもの。
シャロン嬢は、そう分類した。
あの青紫の瞳が焼き菓子を見つめ、真剣に判断している様子を思い出すと、どうにも口元が緩みそうになる。
焼き菓子の比較。
それだけのはずだった。
だが、彼女は最後に蜂蜜が好みだと言った。
自分が好きなものを、彼女も美味しいと言った。
ただそれだけのことが、なぜこんなに胸に残るのか。
「兄上」
声をかけられて、セドリックは顔を上げた。
小書斎の扉の前に、ノエルが立っている。
手には、例の記録表の下書きがあった。
「戻られていたのですね」
「ああ。今戻ったところだ」
「焼き菓子の比較は、どうでしたか」
真面目な顔で聞かれて、セドリックは一瞬返答に迷った。
焼き菓子の比較は、どうでしたか。
弟にそう尋ねられる縁談とは、いったい何なのだろう。
「有意義だった」
結局、そう答えた。
「有意義」
「シャロン嬢は、蜂蜜のものを気に入ってくださった」
「兄上が一番好きなものですね」
「ああ」
「よかったですね」
ノエルは素直に言った。
その言葉に、セドリックは少しだけ息を止める。
よかった。
確かに、よかった。
ただ、その一言で片づけるには、少し胸が落ち着かない。
「そうだな」
それでも、静かに頷いた。
「よかった」
口にすると、思っていたよりしっくりきた。
ノエルは少し微笑み、それから手元の紙を差し出した。
「記録表を直してみました。必須項目をさらに減らして、最初は五つだけにしています」
「見せてくれ」
そう言いながらセドリックは部屋の中へ入り箱を机の端へ置き、記録表を受け取った。
天候。
村名。
荷の種類。
到着時刻。
止まった場所。
任意項目として、遅れた理由、荷車の状態、道の様子、備考。
以前よりずっと実用的になっている。
「いいと思う」
「本当ですか」
「ああ。最初はこれくらいの方が続けやすい。シャロン嬢も、現場の負担になりすぎるものは続かないとおっしゃっていた」
「はい。そこを考えました」
ノエルの声には、少しだけ自信が混じっていた。
セドリックは、その変化を嬉しく思った。
剣の話では見えづらかった弟の力が、少しずつ形になり始めている。
そのきっかけも、シャロン嬢がくれたものだった。
「父上に見せよう」
「今からですか?」
「ああ。今日の報告もある」
「焼き菓子の?」
「それも含む」
ノエルは一瞬きょとんとした後、少しだけ笑った。
「では、家族会議ですね」
「……焼き菓子で家族会議は開かない」
「でも母上はきっと聞きます」
「それは否定できない」
二人で書斎へ向かい扉をノックする。
「父上、セドリックとノエルです」
「入れ」
濃灰色の髪に鋼色の瞳。
父ギルバートの無駄のない姿勢は、相変わらず武門伯爵家の当主らしい。
だが、机の端には茶器と小皿が置かれていた。
小皿は空である。
セドリックは一瞬、そこに視線を止めた。
「父上」
「何だ」
「菓子を召し上がっていましたか」
「茶を飲んでいた」
「菓子も?」
「少しだ」
父は平然と答えた。
この家では、甘いものについて隠そうとしても、たいてい誰かに見抜かれる。
自分だけではないのだと、セドリックは少しだけ安心した。
「そんなことより。ベルフォール家ではどうだった」
父の問いは短い。
だが、そこにはいくつもの意味が含まれている。
訪問は滞りなく済んだか。
先方の反応はどうだったか。
シャロン嬢とはどう話したか。
セドリックは姿勢を正した。
「丁寧に迎えていただきました。エドモンド卿、マリエル夫人、リディア嬢にもご同席いただき、焼き菓子の比較を行いました」
「本当に比較したのか」
「はい」
ギルバートは少しだけ黙った。
おそらく、どう受け取るべきか考えたのだろう。
そこへ、扉が開いた。
「私も聞かせてもらうわ」
母アメリアだった。
深い栗色の髪を上品にまとめ、深い緑の瞳を楽しげに細めている。
「母上」
「ちょうどよかった。焼き菓子の比較がどうなったのか気になっていたの」
「ちょうどよかったというより、待っていたのでは」
「似たようなものね」
「違います」
アメリアはまったく気にせず、自然に椅子へ座った。
ノエルも控えめに座る。
気づけば、本当に家族会議のようになっていた。
焼き菓子の報告であるはずなのに。
「それで、シャロン嬢はどれを気に入ったの?」
アメリアが尋ねる。
「蜂蜜です」
「まあ」
母の顔が明るくなった。
「あなたと同じね」
「はい」
「嬉しかったでしょう」
あまりにもまっすぐ言われ、セドリックは一瞬返答に詰まった。
ギルバートがちらりとこちらを見る。
ノエルも静かに待っている。
逃げ場がない。
いや、逃げる必要もないのかもしれない。
「嬉しかったです」
そう答えると、アメリアは満足そうに微笑んだ。
「よろしい」
「母上の許可が必要な話でしたか」
「必要ではないけれど、聞きたかったの」
母はそう言って、ふふ、と笑った。
ギルバートが低く咳払いをした。
「焼き菓子以外の話は」
「しました」
セドリックは頷いた。
「ハイレン領の市の記録表について、ノエルが整理を進めていることをお伝えしました。シャロン嬢は、続けやすい形にすることが大事だとおっしゃっていましたので」
「当然だな」
ギルバートはノエルへ視線を向けた。
「見せてみろ」
「はい」
ノエルは少し緊張しながら、記録表を差し出した。
父は黙って目を通す。
書斎に沈黙が落ちた。
ノエルの肩が、わずかに固くなる。
セドリックは口を出さずに待った。
やがて父は、紙を机に置いた。
「悪くない」
短い言葉だった。
だが、ノエルの表情が一瞬で明るくなるには十分だった。
「本当ですか」
「ああ。最初に使うなら、これでいい。管理人へ写しを送る」
「はい」
「ただし、実際に使ってみて不備があれば直す」
「はい」
「記録は、作ることより続けることが大事だ」
ノエルは大きく頷いた。
「はい」
アメリアが柔らかく微笑んだ。
「よかったわね、ノエル」
「はい」
ノエルは少し照れたようにうつむいた。
セドリックは、その様子をシャロンにも伝えたいと思った。
彼女の助言が、弟をまた少し前へ進めた。
それを、きっと彼女は「私は思ったことを言っただけです」と言うだろう。
それでも、伝えたい。
あなたの言葉は、届いていると。
「次は、市の配置図か」
ギルバートが地図の入った筒へ目を向けた。
「はい。シャロン嬢も、配置図があれば人の流れを見やすいと」
「用意させる」
「ありがとうございます」
「だが」
父はセドリックを見た。
「ベルフォール家へ持参するなら、ただ相談に行く形にはするな」
セドリックは姿勢を正す。
「はい」
「縁談の相手として訪ねていることを忘れるな。こちらの困りごとを一方的に持ち込んでいるように見えれば、彼女に負担をかける」
父の言葉は正しかった。
シャロン嬢は、おそらく求められれば応えてしまう。
できることを見つければ、考えてしまう。
それが彼女の力であり、同時に癖でもある。
こちらが気づかずに頼りすぎれば、彼女はまた「役に立つこと」で自分の居場所を作ろうとしてしまうかもしれない。
「心得ます」
セドリックは静かに答えた。
「次にお会いする時は、市の配置図の話だけではなく、彼女自身が楽しめる時間も用意したいと思います」
アメリアの目が柔らかくなる。
「いいわね」
「母上?」
「それ、大事よ」
アメリアは微笑んだ。
「シャロン嬢は、役に立つことには慣れている。でも、ただ楽しい時間を受け取ることには、まだ慣れていないように見えるわ」
セドリックは、ベルフォール家でのシャロンの言葉を思い出した。
甘やかされるのは、嫌いというより、慣れていない。
彼女はそう言った。
あの時の青紫の瞳は、少しだけ迷っていた。
それでも、逃げずに言葉にしてくれた。
「今日、シャロン嬢がそうおっしゃっていました」
「何を?」
「甘やかされるのは、嫌いというより慣れていないのだと」
アメリアの表情から、からかいが消えた。
ギルバートも静かにこちらを見る。
ノエルは、少しだけ驚いたように目を伏せた。
「そう」
アメリアは小さく呟いた。
「彼女、言えたのね」
「はい」
「あなたは、どう返したの?」
「急ぎません、と」
アメリアはゆっくり頷いた。
「悪くないわ」
「ですが、それだけでは足りないのかもしれません」
セドリックは自分の手元を見る。
自分は待つことを選びがちだ。
相手を尊重するために。
無理に踏み込まないために。
けれど、何度も言われている。
待つことと、何も差し出さないことは違う。
「次は」
セドリックは少し考えながら言った。
「彼女が役に立つからではなく、ただ一緒に過ごすことが嬉しいと伝えたいです」
口にした瞬間、書斎が静かになった。
ノエルが少し目を丸くする。
アメリアは、やわらかく微笑んだ。
ギルバートは何も言わない。
沈黙が長く感じられ、セドリックは少しだけ不安になる。
「重いでしょうか」
「いや」
答えたのはギルバートだった。
「言うべき時に言え」
「はい」
「ただし、言葉だけでなく態度で示せ」
「態度で」
「相手を必要だから呼ぶのではなく、会いたいから呼ぶ。そういう違いは、言葉だけでは伝わりにくい」
父の言葉は、思った以上に深かった。
アメリアが少し楽しそうに夫を見る。
「あなた、たまにとても良いことを言うわね」
「たまにとは何だ」
「褒めているのよ」
「そうか」
ギルバートはそれ以上追及しなかった。
ノエルが小さく笑い、書斎の空気が少し和らぐ。
セドリックは、父の言葉を胸に留めた。
会いたいから会う。
ただそれだけのことが、今までの自分には少し難しかった。
縁談だから。
領地の相談があるから。
手紙の返事をするから。
焼き菓子の比較が必要だから。
いつも、理由があった。
もちろん、それらはすべて本当だ。
だが、その下にあるもっと単純な気持ちを、理由で隠していたのかもしれない。
シャロン嬢に会いたい。
そう思っている。
そのことを、そろそろ自分でも認めるべきなのだろう。
「次に持参するものは、市の配置図と焼き菓子だけでは足りないかもしれませんね」
アメリアが言った。
「何を持っていけばよいでしょうか」
セドリックが尋ねると、母は微笑んだ。
「花でも、流行の本でも、綺麗なリボンでもいいけれど……シャロン嬢なら、あまり飾りすぎると身構えるでしょうね」
「はい」
「なら、彼女が負担に思わず、でも少しだけ嬉しくなるものがいいわ」
「難しいですね」
「だから考えるのよ」
アメリアは楽しそうに言った。
ノエルが少し考えて、控えめに口を開いた。
「あの」
「どうした、ノエル」
「ミルディア領の春市の話を、兄上は以前聞いたのですよね」
「ああ」
「なら、ハイレン領の配置図と一緒に、ミルディア領の春市についてもっと聞きたいと伝えるのはどうでしょう。助言を求めるだけではなく、シャロン嬢が大切にしているものを知りたい、という形で」
セドリックは弟を見た。
ノエルは言ってから、少し不安そうに肩をすくめた。
「すみません。思いつきです」
「いや」
セドリックは首を横に振った。
「良いと思う」
シャロン嬢は、ミルディア領の話をする時、少しだけ表情が変わる。
地図や市の話になると前のめりになる。
それは単に役目だったからではなく、彼女が本当に大切にしてきたものだからだ。
ならば、それをもっと聞きたいと伝えることは、彼女自身を知りたいということになる。
「ありがとう、ノエル」
セドリックが言うと、ノエルは嬉しそうに目を伏せた。
「役に立ったなら、よかったです」
「役に立った」
ギルバートが静かに言った。
「お前の見方も、悪くない」
ノエルは驚いたように父を見る。
それから、ゆっくりと頷いた。
「はい」
アメリアが小さく微笑む。
セドリックは、その場の光景を見ながら思った。
シャロン嬢の言葉が、ノエルに届いた。
ノエルの言葉が、今度は自分に届いた。
人の言葉は、こうして少しずつ形を変えながら、誰かを動かすのかもしれない。
その夜、セドリックは小書斎でひとり、手紙を書いた。
今日の訪問の礼。
焼き菓子の比較が有意義だったこと。
彼女が蜂蜜を気に入ってくれたことが嬉しかったこと。
ノエルの記録表が父に認められたこと。
そして、次の約束について。
――次回、市の配置図をお持ちできればと思います。
――ただ、それだけではなく、シャロン嬢が話してくださったミルディア領の春市についても、改めて伺えたら嬉しいです。
――助言をいただきたいからだけではありません。
――あなたが大切にしてきたものを、もっと知りたいと思っています。
そこまで書いて、セドリックは手を止めた。
踏み込みすぎただろうか。
いや。
これは本当のことだ。
父に言われた。
言葉だけでなく態度で示せ、と。
母に言われた。
今感じていることを書け、と。
そして自分自身も、もう隠しきれないほど思っている。
彼女のことを、もっと知りたい。
セドリックは、その一文を消さなかった。
最後に、追伸を加える。
――蜂蜜の焼き菓子については、次回、別の店のものも比較材料として用意いたします。
書き終えて、セドリックは静かに息を吐いた。
焼き菓子の報告から始まった家族会議は、結局、次にどう彼女へ向き合うかの話になった。
それが少しおかしくて、少しありがたかった。
自分一人では、きっとまた理由を探していた。
だが今は、理由の奥にある気持ちを見つめている。
シャロン嬢に会いたい。
彼女が大切にしてきたものを、知りたい。
その言葉を手紙に乗せることが、今の自分にできる、ひとつの踏み込み方だった。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
焼き菓子の報告から、なぜか家族会議になったグランフェル家でした。
セドリックも少しずつ「会いたい」という気持ちを自覚し始めているようです。
次回もよろしくお願いします。




