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元跡継ぎ令嬢はお見合い結婚した騎士伯爵と恋をします  作者: 影道AIKA


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第18話 甘い余韻は、少し扱いに困ります

読みに来てくださりありがとうございます。

今回は焼き菓子比較会の後、ベルフォール家側のお話です。

シャロンの中に残った余韻と、家族との少し柔らかな時間を楽しんでいただけたら嬉しいです。

セドリック様の馬車が門の向こうへ消えた後、私はしばらく玄関広間に立っていた。


 別に、名残惜しく見送っていたわけではない。


 ただ、礼儀として、客人の馬車が見えなくなるまで見送っていただけだ。


 そう。

 礼儀である。


「お姉様」


 隣からリディアの声がした。


「何」


「馬車、もう見えませんよ」


「知っているわ」


「では、なぜまだ見ているんですか?」


「余韻の確認よ」


「余韻」


「ええ。焼き菓子の」


 リディアは目をぱちぱちさせた後、口元を押さえた。


 笑っている。

 完全に笑っている。


「何か言いたいことがあるなら言いなさい」


「焼き菓子の余韻という言葉でごまかそうとしているところが、とてもお姉様らしいです」


「褒めていないわね」


「少しだけ褒めていますよ」


「残りは?」


「かなり面白がっています」


 正直でよろしい。

 ただし、少し腹立たしい。


 私は扇を閉じ、玄関広間から応接室へ戻った。


 部屋には、まだ甘い香りが残っていた。


 蜂蜜。

 胡桃。

 林檎。


 三種類の焼き菓子が並んでいた皿は、ほとんど空になっている。

 リディアが林檎の焼き菓子をとても気に入り、母は蜂蜜をひとつ、父は胡桃を黙って二つ食べた。


 父が焼き菓子を二つ食べる姿は、なかなか珍しかった。


「お父様」


 私が席へ戻ると、父は何事もなかったように茶杯を置いた。


「何だ」


「胡桃の焼き菓子、お気に召したのですか?」


「悪くなかった」


「二つ召し上がっていました」


「確認だ」


「何の?」


「味の」


 父は平然と答えた。


 なるほど。

 確認なら仕方ない。


 私は頷きかけて、途中で止めた。


 いや、違う。

 なぜ納得しかけたのか。


「お父様まで比較に参加なさるとは思いませんでした」


「出されたものを無駄にするわけにはいかない」


「それは正しいですが、二つ目は無駄防止というより好みでは?」


 父は少しだけ黙った。


 母が隣で微笑む。


「あなた、胡桃のものが一番お好きだったの?」


「……悪くなかった」


「ええ。悪くなかったのね」


 母の声が少し楽しそうだった。


 父はそれ以上何も言わなかった。

 けれど、空になった皿を見れば答えは出ている。


 リディアが私の隣へ座り、にこにこと笑う。


「私は林檎が一番好きです」


「知っているわ。三つ目に手を伸ばそうとして、母に止められていたもの」


「あれは、確認です」


「あなたも?」


「はい。味の」


「ベルフォール家では、焼き菓子の確認が流行しているのかしら」


 母が小さく笑った。


「シャロンは、蜂蜜だったわね」


「……総合的に見て、蜂蜜が一番完成度が高かっただけです」


「完成度」


 リディアが楽しそうに繰り返す。


「お姉様、焼き菓子を食べる時も審査官なんですね」


「比較と言ったのはセドリック様よ」


「最初に実物の比較が必要と書いたのはお姉様では?」


「可能性を述べただけよ」


「でも、セドリック様はちゃんと持ってきてくださいましたね」


「……そうね」


 そこは否定できなかった。


 セドリック様は本当に、三種類の焼き菓子を持ってきた。

 真面目な顔で、比較材料だと言って。


 そして、蜂蜜が好きだと隠さなかった。


 好きなものを好きだとわかる顔は、悪いものではないと思います。


 自分で言った言葉を思い出し、私は少しだけ視線を落とした。


 私は、何を言っていたのだろう。


 あの時は自然に出た。

 けれど今になって思い返すと、ずいぶん踏み込んだことを言った気がする。


 好きなものを好きだとわかる顔。


 それは、セドリック様に向けた言葉だった。

 けれど同時に、自分にも向けていたのかもしれない。


 好き。

 楽しみ。

 嬉しい。


 そういう言葉を、私はどこか苦手にしている。


 役に立つ。

 必要だ。

 正しい。


 そちらの方がずっと扱いやすい。


「シャロン」


 母の声が、柔らかく響いた。


「はい」


「今日は、楽しそうだったわ」


 私は反射的に否定しようとした。


 けれど、口を開く前に止まった。


 セドリック様に言われたことを思い出したからだ。


 虚偽申告。


 自分で言い出した言葉が、こういう時に自分へ返ってくるのは、少し腹立たしい。


「……少しは」


 私は小さく答えた。


「少しは、楽しかったです」


 リディアがぱっと顔を明るくした。


 母は、驚いたように目を見開いた後、とても穏やかに微笑んだ。


「そう。よかったわ」


 その一言が、胸に触れた。


 よかった。


 母はそれ以上、何も言わなかった。

 どう楽しかったのか。

 どこが良かったのか。

 セドリック様をどう思っているのか。


 そういうことを、すぐには聞かなかった。


 ただ、よかったと言った。


 その距離が、今はありがたかった。


「セドリック殿は、よく見ている方だな」


 父が静かに言った。


 私は父へ視線を向ける。


「そう思われますか」


「ああ。話す時に、相手の返答を待つ。自分の言葉を急がない。だが、必要なことは言う」


 父は茶杯を置いた。


「武門伯爵家の跡継ぎというだけでなく、本人に慎重さがあるな」


「慎重すぎるところもあるようですが」


 そう言うと、父は少しだけ目元を緩めた。


「お前には、ちょうどいいのではないか?」


「なぜです」


「急いで踏み込まれるのは嫌だろう」


 返事に詰まった。


 父は静かにこちらを見ている。


 以前の私なら、こういう言葉にも身構えていたかもしれない。

 決めつけないでください。

 そう言っていたかもしれない。


 けれど今は、父の言葉を少しだけ受け取れた。


「……そうですね」


 私は答えた。


「急がれるのは、苦手です」


「だろうな」


「ですが」


 私は少し言葉を探した。


「待たれすぎても、たぶん困ります」


 言ってから、自分で驚いた。


 父も母も、リディアも、少しだけ静かになった。


 私は扇を握る手に力を込める。


 今のは、何だろう。


 何を言ったのだろう。


 待たれすぎても困る。


 それはつまり、踏み込まれたいということなのだろうか。

 いや、そこまでではない。

 たぶん。

 おそらく。


 ……自信はない。


 母が、そっと微笑んだ。


「そうね。待つことと、何もしないことは違うものね」


 私は母を見た。


 どこかで聞いたような言葉だった。


 アメリア様が言いそうだと思った。

 そしてきっと、セドリック様も言われている気がした。


「お母様」


「何かしら」


「その言い方、少しアメリア様に似ていますね」


「あら。光栄ね」


 母は本当に嬉しそうに笑った。


 リディアが身を乗り出す。


「アメリア様、素敵な方でしたよね。庭園で少しお話ししただけですけど、とても優しくて、でも全部見抜いていそうで」


「あなた、少し話しただけでよくそこまで見たわね」


「顔です」


「最近、顔で判断するのが流行しているの?」


「お姉様も皆に読まれていますから」


「それは流行ではなく被害よ」


 リディアがくすくす笑う。


 その明るさに、少しだけ救われる。


 応接室に残っていた緊張が、ゆるやかに解けていく。


 父が、ふと低い声で言った。


「グランフェル家との縁談についてだが」


 その言葉に、部屋の空気が少し改まった。


 私は背筋を伸ばす。


「はい」


「急いで答えを出すつもりはない」


 父は言った。


「だが、今日の様子を見る限り、悪い話ではないと思っている」


 私は黙って聞いた。


「もちろん、お前が嫌なら断る。それは変わらない」


「……はい」


「ただ、シャロン」


 父の青灰色の瞳が、静かに私を見る。


「お前が嫌ではないのなら、それもちゃんと自分の答えとして扱っていい」


 胸の奥が、また揺れた。


 嫌ではない。


 その言葉は、とても近いところにあった。


 セドリック様と話すことは、嫌ではない。

 手紙が届くことも、嫌ではない。

 焼き菓子の比較も、少し楽しみだった。

 次に会う約束をすることも、嫌ではない。


 むしろ。


 そこから先の言葉を、私はまだ知らない。


 だから今は、そこまでしか言えない。


「……嫌では、ありません」


 私は静かに答えた。


 父は頷いた。


「なら、今はそれでいい」


 母も、何も急かさなかった。

 リディアも、珍しく茶々を入れなかった。


 ただ、隣で少し嬉しそうに笑っていた。


 その静けさが、ありがたかった。


 部屋に戻った後、私は机の引き出しを開けた。


 そこには、セドリック様から届いた手紙をまとめて置いてある。


 お見合いの礼。

 焼き菓子の虚偽申告の訂正。

 ハイレン領の困りごと。

 地図の話。

 嬉しいという言葉。

 そして、今日の焼き菓子。


 並べてみると、どれも普通の恋文とは少し違う。


 領地相談であり。

 礼状であり。

 焼き菓子の記録であり。

 会話の続きでもある。


 けれど、それらは確かに私の中に残っている。


 私は便箋を取り出した。


 返事を書くつもりはなかった。


 セドリック様は今日来たばかりだ。

 すぐに手紙を書くのは、少し早い気がする。


 けれど、書きたいことが浮かんでしまった。


 ――本日の比較材料は、どれも有意義でした。


 違う。

 そうではない。


 私は一度、ペンを止めた。


 有意義。

 判断材料。

 比較。


 どれも間違ってはいない。

 けれど、それだけでは今日のことを言い表せない。


 蜂蜜の焼き菓子を食べた時の、セドリック様の少し明るくなった顔。

 林檎の菓子を前にしたリディアの笑顔。

 胡桃の菓子を黙って二つ食べた父。

 母の柔らかな微笑み。


 そして、帰り際に言われた言葉。


 今日、お会いできて嬉しかったです。


 私はしばらく便箋を見つめた。


 それから、ゆっくりと書いた。


 ――本日はありがとうございました。


 その先で、また止まる。


 どう書けばいい。

 楽しかったと、もう一度書くのか。

 嬉しかったと返すのか。


 それは、あまりにも正直すぎる気がする。


 けれど、嘘を書く気にもなれない。


「……本当に、扱いに困るわ」


 甘い余韻も。

 手紙も。

 セドリック様も。

 そして、自分の気持ちも。


 私は結局、その日は手紙を書き上げなかった。


 途中まで書いた便箋を、引き出しの中にそっとしまう。


 まだ出せない言葉がある。


 でも、捨てる気にもなれない。


 それでいいのだと、今は思うことにした。


 窓の外には、夜の庭が静かに広がっている。


 蜂蜜の甘さはもう消えているのに、胸の奥にはまだ、やわらかな余韻が残っていた。

最後まで読んでいただきありがとうございます。

焼き菓子の甘さだけでなく、セドリックの言葉や家族の反応も、シャロンの中に残ったようです。

次回もよろしくお願いします。

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