第2話 好きに生きていいと言われましても
読みに来てくださりありがとうございます。
今回は婚約解消後のシャロンと、ベルフォール家の空気に少し触れるお話です。
見守っていただけたら嬉しいです。
婚約解消の話を父と母に伝えた時、二人はひどく静かだった。
怒鳴ることも、取り乱すこともなかった。
ただ、父は深く眉間に皺を寄せ、母は膝の上で指を組んだまま、しばらく何も言わなかった。
「……そうか。フィリップ殿は、そう言ったのか」
父、エドモンド・ベルフォール子爵は、低い声でそう呟いた。
「ええ。とてもわかりやすく」
私が答えると、母が痛ましそうにこちらを見た。
その顔を見て、胸の奥が少しだけ重くなる。
心配されているのだとわかる。
愛情がないわけではないのだと、頭では理解している。
けれど、こういう時に限って私は、素直に傷ついた顔ができない。
「シャロン」
母がそっと私の名を呼んだ。
「つらかったでしょう」
「いいえ」
反射のように答えていた。
母の睫毛がわずかに揺れる。
しまった、と思った。
けれど今さら「本当は少しだけ」と言えるほど、私は器用ではない。
「恋をしていたわけではありませんから」
そう言うと、父がさらに眉を寄せた。
「それでも、四年だ」
「四年分、良い勉強になりました」
我ながら可愛げのない返事だと思う。
けれど、可愛げなど持ち合わせていない。
少なくとも、跡継ぎとして育てられてきた私には必要ないものだった。
すぐ下の妹のリディアなら、きっと怒って泣いただろう。
2番目の妹のフローラなら、本を閉じるような顔で相手の本質を言い当てただろう。
私は、笑って受け流す。
それが私の役目だったから。
「正式な手続きは進めよう。ラングレー家には、こちらからも話を通す」
「お願いします」
私は淡々と頷いた。
話は終わった。
そう思って立ち上がろうとした時、父が少し迷うように口を開いた。
「シャロン」
「はい」
「お前はもう、無理をしなくていい」
その言葉に、動きが止まった。
母も頷く。
「そうよ。あなたは今まで、本当によく頑張ってくれたわ。これからは、もっと好きに生きていいの」
好きに生きていい。
優しい言葉のはずだった。
労わりの言葉のはずだった。
なのに私の胸に落ちたそれは、柔らかな布ではなく、空っぽの箱のようだった。
好きに生きていい。
つまり、もう必要な役目はない。
跡継ぎとして立てと言われていた頃は、失敗すれば叱られた。
泣く暇があるなら報告書を直せと言われた。
領地の数字を読み違えれば、何度でもやり直させられた。
それは厳しかった。
苦しかった。
妹たちが母の膝に甘えている横で、私は父の書斎で帳簿を広げていた。
けれど、あの時間には意味があった。
私が必要とされている証のように思えていた。
それが、弟レオンの誕生で変わった。
小さな男の子が生まれた。
ベルフォール家に、待望の跡継ぎが生まれた。
めでたいことだ。
もちろん、わかっている。
あの子に罪はない。
それも、わかっている。
けれど同時に、私が積み上げてきた道は、静かに横へどけられた。
「……そうですね」
私は微笑んだ。
「では、好きに生きる練習でもいたします」
母が何か言いたそうに唇を開いた。
けれど私は、それより先に礼をした。
「少し、庭を歩いてまいります」
逃げたのだと思う。
けれど、逃げる足取りも乱さないのが、私の厄介なところだった。
廊下に出ると、屋敷の奥から明るい声が聞こえた。
「きゃあ、レオンが笑ったわ!」
リディアの声だ。
「今のは笑ったというより、たまたま口元が動いただけでは?」
「フローラ、夢のないこと言わないで!」
続いて、フローラの冷静な声と、リディアの抗議が聞こえる。
私は足を止めた。
覗くつもりはなかった。
けれど扉の隙間から見えてしまった。
母の侍女に抱かれたレオンが、小さな手をぱたぱたと動かしている。
リディアはその前で頬を緩ませ、フローラは本を片手にしながらも視線だけは弟に向けていた。
柔らかい空気だった。
家族の中にある、あたたかな場所。
そこに私が入ってはいけないわけではない。
けれど、どう入ればいいのかがわからなかった。
「あら、お姉様」
先に気づいたのはフローラだった。
その瞬間、リディアがぱっと振り返る。
「お姉様! 見て、レオンが笑ったの!」
「そう。将来有望ね。生後まもなく社交術を身につけるとは」
私がそう言うと、リディアは一瞬きょとんとしてから笑った。
「もう、お姉様ったら!」
フローラは小さく肩を揺らした。
「赤子の愛想笑いを社交術扱いする姉は、王国でも珍しいと思います」
「褒め言葉として受け取るわ」
「いえ、観察結果です」
いつものやり取り。
少しだけ息がしやすくなる。
レオンが、こちらへ手を伸ばした。
小さな、小さな手だった。
何も知らない手。
私から何かを奪ったつもりなど、少しもない手。
私は近づいて、その指先にそっと触れた。
レオンは私の指を握った。
驚くほど弱く、けれど離れない力で。
「……あなたは悪くないわ」
誰にも聞こえないほど小さく、私は呟いた。
するとレオンは、返事の代わりのように、ふにゃりと顔を崩した。
笑った、のかもしれない。
偶然かもしれない。
けれど私は、少しだけ困ってしまった。
この子を恨めたら、楽だったのだろう。
フィリップをただ嫌な男だと切り捨てられたら、簡単だったのだろう。
父と母を冷たい人たちだと決めつけられたら、私の痛みはもっと形を持てたのだろう。
でも、そうではない。
誰も完全な悪者ではない。
だからこそ、私はどこに怒りを置けばいいのかわからない。
「お姉様?」
リディアが首をかしげた。
「大丈夫ですか?」
「ええ」
私は指をそっと引き抜き、背筋を伸ばした。
「大丈夫よ」
いつもの言葉。
便利で、聞き慣れていて、少しだけ息苦しい言葉。
けれど今の私には、それ以外の答え方がわからなかった。
好きに生きていいと言われましても。
私はまだ、役目のない自分の立ち方を知らない。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
シャロンにとって「好きに生きていい」は、まだ優しさとして受け取るには難しい言葉のようです。
次回もよろしくお願いします。




