第1話 どうやら私は、婚約者ではなく就職先だったようです
新作です。
元跡継ぎ令嬢と、優しい騎士伯爵のお見合い結婚から始まる恋のお話です。
基本はコメディ寄り、時々シリアスで進んでいきます。
よろしくお願いします。
「婚約を、解消したい」
フィリップ・ラングレーは、紅茶の香りがまだ湯気と一緒に立ちのぼっている席で、まるで天気の話でもするようにそう告げた。
私は、手にしていたカップを静かに皿へ戻した。
音は立てなかった。
立てる必要もなかった。
「理由を伺っても?」
私がそう尋ねると、フィリップはわずかに眉を下げた。
困っている、という顔だった。
けれどその表情は、私を気遣っているというより、自分が悪者に見えるのを避けたい男の顔に見えた。
「君を責めるつもりはないんだ、シャロン」
「それはどうも。責められる覚えもありませんけれど」
フィリップの口元が引きつった。
私は微笑んだ。
こういう時こそ、笑うに限る。
泣いたところで何も戻らないし、怒鳴ったところで相手の器が大きくなるわけでもない。
「ただ、状況が変わった」
フィリップは慎重に言葉を選ぶように言った。
その言い方が、少しだけ腹立たしかった。
まるで領地の収穫量が落ちたとか、馬車の車輪が壊れたとか、そういう話のようだったから。
「状況、ですか」
「ああ。君もわかっているだろう。ベルフォール子爵家に、男児が生まれた」
弟のレオン。
まだ一歳にもならない、小さな小さな弟。
柔らかな頬。
握るとすぐに開いてしまう手。
何も知らずに眠る顔。
あの子に罪はない。
もちろん、わかっている。
けれどその誕生によって、私の未来は大きく形を変えた。
私は幼い頃から、ミルディア領を継ぐ者として育てられてきた。
泣く前に考えろ。
甘える前に立て。
間違えたなら、次にどう正すかを示せ。
それが私の日常だった。
だから私は、そういうものだと思っていた。
ベルフォール家の長女として。
跡継ぎとして。
いつか父の後を継ぎ、ミルディア領を治めるのだと。
その隣に立つ相手として、フィリップとの婚約も受け入れていた。
恋をしていたわけではない。
胸が高鳴ったことも、会いたくて眠れなかったこともない。
けれど四年だ。
四年も婚約者でいた。
私は、彼と共に領地を支えていくものだと思っていた。
少なくとも、そういう未来を作る努力くらいはするものだと思っていた。
「レオンが生まれたことで、君がベルフォール家を継ぐ可能性は低くなった」
フィリップは続けた。
「私は三男だ。自分の家を継ぐことはできない。だからこそ、君の夫として、ミルディア領を支える覚悟をしていた」
「ええ、存じております」
「だが君が継がないのなら、その未来はない」
あまりにもわかりやすい言葉だった。
いっそ感心するほどに。
「つまり」
私はゆっくりと瞬きをした。
「あなたが婚約していたのは、私ではなく、ベルフォール家の跡継ぎだったということですね」
「そういう言い方はよくない」
「では、どういう言い方ならよろしいのかしら。私ではなく、椅子に求婚していた、とでも?」
「シャロン」
「失礼。椅子に失礼でしたわね。少なくとも椅子は、四年も座っておいて急に立ち上がる相手を責めませんもの」
フィリップは完全に黙った。
私は笑みを深めた。
勝った気はしない。
けれど、黙って傷ついてやる義理もない。
「君は強いな」
しばらくして、彼はそんなことを言った。
強い。
便利な言葉だ。
泣かない女に。
怒鳴らない女に。
傷ついても背筋を伸ばすしかない女に。
人は簡単にそう言う。
「ありがとうございます。おかげさまで、幼い頃から鍛えられておりますので」
「皮肉を言わないでくれ」
「あら。まだ控えめにしておりますのに」
フィリップは小さく息を吐いた。
「私にも、私の人生がある」
その言葉に、胸の奥が冷えた。
そう。
それは正しい。
彼にも彼の人生がある。
家を継げない三男として、居場所を探していた彼にとって、私との婚約はきっと重要だったのだろう。
けれど、それなら。
私の人生は?
私が積み上げてきたものは?
跡継ぎとして学び、耐え、受け入れてきた時間は?
弟が生まれた。
だから私は跡継ぎではなくなった。
婚約者が去る。
だから私は婚約者ですらなくなった。
では、シャロン・ベルフォールという私は、いったい何なのだろう。
そんな問いが喉元まで込み上げた。
けれど私は、それを飲み込んだ。
ここでそれを口に出したら、まるで私が彼に答えを求めているようではないか。
冗談ではない。
フィリップ・ラングレーに、私の価値を決めさせてたまるものか。
「よくわかりました」
私は立ち上がった。
「婚約解消の件、父と母には私からもお伝えします。正式な手続きは両家で進めてくださいませ」
「シャロン、私は――」
「大丈夫ですわ」
私はにっこりと笑った。
「あなたが私を不要だと判断したことは、十分に理解いたしましたから」
フィリップが傷ついたような顔をした。
なぜあなたが傷ついた顔をするのかしら。
そう尋ねたかったが、やめておいた。
これ以上、彼に時間を使うのは惜しい。
「ごきげんよう、フィリップ様」
私は礼をして、彼に背を向けた。
扉へ向かう足取りは乱れなかった。
背筋も伸びていた。
きっと誰が見ても、私は平然としていただろう。
廊下に出て、扉が閉まる。
そこでようやく、私は小さく息を吐いた。
涙は出なかった。
出る気配もなかった。
恋を失ったわけではないからだ。
ただ、四年かけて当然のようにあった未来が、条件が変わったという理由であっさり取り消されただけ。
どうやら私は、婚約者ではなく就職先だったようです。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
婚約者というより、どうやら就職先扱いだったシャロンです。
次回、彼女の状況がもう少し見えてきます。




