第15話 嬉しいと言われると、逃げ道がありません
読みに来てくださりありがとうございます。
今回はセドリックからの返事を受け取ったシャロンと、ベルフォール家での小さな会話のお話です。
少しずつ受け取れる言葉が増えていくシャロンを見守っていただけたら嬉しいです。
セドリック様からの返事は、思っていたより早く届いた。
その封筒を受け取った瞬間、私は少しだけ指先に力が入るのを感じた。
以前なら、手紙はただの手紙だった。
礼状。
報告。
招待への返答。
必要な言葉を整え、必要な相手へ届けるもの。
けれど最近、グランフェル家の封蝋を見ると、どうにも落ち着かない。
それが自分でも腹立たしい。
「お姉様」
背後からリディアの声がした。
「今、少し嬉しそうでした」
「あなた、最近そればかりね」
「だって、本当にそう見えますもの」
「封蝋を確認しただけよ」
「はい。セドリック様からだと確認しただけですね」
「リディア」
「黙ります!」
絶対に黙る気のない顔で、妹は口元に手を当てた。
私はため息をつき、部屋の机に向かった。
封を切る。
整った文字が、相変わらず律儀に並んでいた。
私の手紙への礼。
記録表について、ノエル様が項目を整理し直していること。
現場の負担になりすぎないように、必ず記録する項目と、余裕があれば記録する項目を分ける案が出たこと。
私は思わず小さく頷いた。
良い判断だ。
最初から完璧な記録を求めると、続かない。
まずは続けられる形にするのが大事だ。
「お姉様、またお仕事の顔です」
「手紙を読んでいるだけよ」
「普通のお手紙に頷きながら読む令嬢は、そんなに多くないと思います」
「統計を取ったの?」
「取っていませんけど、たぶんです」
「根拠のない推測は減点ね」
「普通のお手紙に頷きながら読む令嬢は、そんなに多くないと思います」
「統計を取ったの?」
「取っていませんけど、たぶんです」
「根拠のない推測は減点ね」
「出ました、お姉様の減点」
「何よ、その言い方」
「とてもお姉様らしいです」
「褒めていないわね」
「少しだけ褒めていますよ?」
「まぁ……いいわ」
私は続きを読んだ。
そして、そこで手が止まった。
――嬉しいと書いてくださったことが、私も嬉しかったです。
息が、少しだけ詰まった。
ただの一文だ。
飾った言葉ではない。
熱烈な愛の言葉でもない。
令嬢を口説くための甘い文句でもない。
それなのに、胸の奥へまっすぐ入ってきた。
私が嬉しいと書いたことを、セドリック様も嬉しいと思った。
その事実が、思ったより強かった。
「……ずるいわ」
思わず呟いていた。
「えっ、何がですか?」
リディアが身を乗り出す。
「何でもないわ」
「絶対に何でもなくないです」
「何でもないと言ったら何でもないの」
「お姉様、顔が赤いです」
「赤くないわ」
「少し赤いです」
「部屋が暖かいのよ」
「今日は少し肌寒いです」
「リディア」
「はい、黙ります!」
やはり黙る気はない。
私は扇を取り、口元を隠した。
逃げ場がない。
セドリック様の言葉は、時々そうだ。
強引ではない。
踏み込みすぎてもいない。
けれど、こちらが差し出した言葉をきちんと受け取り、まっすぐ返してくる。
だから、誤魔化しづらい。
嬉しく思います。
そう書いたのは私だ。
それを嬉しかったと言われてしまえば、もう「礼儀です」とだけ逃げるのは難しい。
私は深呼吸して、さらに続きを読んだ。
追伸には、焼き菓子の好みが律儀に書かれていた。
蜂蜜の焼き菓子。
胡桃入りの焼き菓子。
林檎を煮たものを包んだ焼き菓子。
そして最後に、
――判断材料として、不足があれば次回追加で申告します。
私は扇で口元を隠したまま、しばらく動けなかった。
「お姉様?」
「……真面目なのか、冗談なのか、判断に困るわ」
「セドリック様ですか?」
「ええ」
「たぶん、真面目に冗談を言っているのでは?」
「一番厄介な分類ね」
リディアは楽しそうに笑った。
「でも、楽しそうですわ」
「誰が?」
「お姉様が!」
「私は困っているのよ?」
「楽しそうに困っています」
「そんな器用なことはしていないわ」
そう言いながらも、否定しきれなかった。
困っている。
それは本当だ。
けれど嫌ではない。
セドリック様の手紙は、私を無理に持ち上げない。
哀れまない。
必要以上に甘いことも言わない。
なのに、心の奥に届いてしまう。
それが、困る。
私は手紙を丁寧に折り直した。
「返事は?」
リディアが尋ねる。
「すぐには書かないわ」
「珍しいですね」
「少し、考えるわ」
「何をですか?」
「……何を返せば虚偽申告にならないかよ」
そう言うと、リディアは口元を押さえた。
笑っている。
「何か言いたいなら言いなさい」
「お姉様、本当にセドリック様と会話しているみたいですね」
「手紙なのだから、会話の続きでしょう」
「前にもそう言っていました」
「……そうだったかしら」
「はい」
リディアは嬉しそうに頷いた。
「いいと思います。お姉様が、誰かと言葉を続けたいと思うの」
その言葉に、私は返せなくなった。
言葉を続けたい。
そうなのだろうか。
セドリック様から手紙が来る。
読む。
考える。
返したい言葉が浮かぶ。
それは確かに、終わらせたくないということなのかもしれない。
まだ恋だとは思わない。
そんな名前をつけるには、私はあまりにも何も知らない。
けれど、彼とのやり取りを切りたいとは思っていない。
その事実だけは、否定できなかった。
その日の午後、私は父の書斎へ呼ばれた。
また何か手続きの話かと思ったが、父は机の上の書類を片づけ、私を椅子へ勧めた。
「シャロン、少し話せるか」
「はい」
私は腰を下ろす。
父の書斎は、昔からよく知っている場所だった。
幼い頃の私は、ここで帳簿を広げていた。
父の向かいに座り、数字の意味を問われ、間違えれば正され、泣きたい日も背筋を伸ばしていた。
この部屋は、私にとって学びの場所であり、少しだけ息苦しい場所でもある。
「グランフェル伯爵家から、礼の文が届いた」
父が言った。
「礼、ですか」
「ああ。ハイレン領の市について、お前の助言が役に立ったと」
私は膝の上で指を組んだ。
「私は、地図を見て思ったことを言っただけです」
「それが役に立ったのだろう」
「まだ結果は出ていません」
「結果が出る前でも、見方が変わることはある」
父の声は静かだった。
私は少しだけ戸惑った。
父とこういう話をするのは久しぶりだった。
いや、正確には、こういうふうに話すのが久しぶりなのだ。
以前なら、父は私に問うた。
なぜそう考えた。
根拠は何だ。
他に方法はあるか。
それは学びであり、訓練だった。
けれど今の父は、私を試しているようには見えなかった。
「シャロン」
「はい」
「お前は、よく見ている」
胸の奥が、不意に揺れた。
「……昔から、そう見るように教えられましたから」
「そうだな」
父は頷いた。
「私が教えた。厳しくもした。お前ならできると思っていたからだ」
「はい」
「だが」
父は少し言葉を切った。
「私は、お前ができることばかりを見ていたのかもしれない」
その言葉に、私は顔を上げた。
父は机の上で手を組んでいる。
その表情は、領主としてのものではなく、父親のものに見えた。
「お前が何を感じているか、どれだけ苦しいか、私は十分に見ていなかった」
「お父様……」
「レオンが生まれた時も、私はお前に好きに生きていいと言った」
心臓が、静かに音を立てた気がした。
「それは、お前を縛ってきた役目から解放したいと思ったからだ。だが、お前には違う響き方をしたのだろう?」
私は、すぐに答えられなかった。
好きに生きていい。
あの言葉は、優しさだった。
今なら、前よりはわかる。
けれどあの時の私には、もう役目はないと言われたように聞こえた。
必要とされていない。
そう突き放されたように。
「……わかりません」
私は正直に言った。
「お父様が、私を傷つけるつもりで言ったのではないことは、わかっています」
「ああ」
「でも、あの時は……どう受け取ればいいのか、わかりませんでした」
声は震えていない。
たぶん。
けれど、言葉を出すのに少し力が必要だった。
父は黙って聞いていた。
途中で否定しなかった。
言い訳もしなかった。
「私は、跡継ぎとして育てられることが苦しかったこともあります」
私は続けた。
「けれど、それが私の居場所でもありました。必要とされている証のように思っていました」
「……そうか」
「だから、それを失った時、どう立てばいいのかわからなくなりました」
父の眉間に、深い皺が寄った。
怒っているのではない。
苦しそうだった。
「すまなかった」
私は息を止めた。
謝られたいわけではなかった。
少なくとも、そう思っていた。
けれど父の言葉を聞いた瞬間、胸の奥で固くなっていた何かが、少しだけ緩んだ。
「お父様が、すべて悪いわけではありません」
「それでも、私はお前の父だ」
父は静かに言った。
「領主としてではなく、父として、もっと言うべきことがあった」
私は目を伏せた。
何を言えばいいのかわからなかった。
父を責める言葉も。
許す言葉も。
どちらもまだ、うまく出てこない。
ただ、以前より少しだけ、父の言葉を聞ける気がした。
「グランフェル家で、お前の言葉が残ると聞いた」
「はい」
「私は、それを誇りに思う」
息が詰まった。
父はまっすぐ私を見ていた。
「跡継ぎとしてではなく、私の娘として」
私は膝の上の手を握った。
視界が少し滲みそうになり、慌てて瞬きをする。
泣くつもりはない。
泣くほどのことではない。
そう思うのに、胸の奥がうまく整わない。
「……ありがとうございます」
なんとか、それだけ言った。
父は小さく頷いた。
「セドリック殿は、良い方のようだな」
「なぜ、そこでセドリック様の話になるのですか」
「お前が、以前より少し顔を変えるからだ」
「お父様まで」
「何だ」
「最近、皆が私の顔を読みすぎます」
父は一瞬だけ目を瞬いた後、わずかに笑った。
その笑い方は、少しだけリディアに似ている気がした。
いや、リディアが父に似ているのだろうか。
「嫌なのか?」
「……嫌ではありません」
言ってしまってから、私は視線をそらした。
父は何も言わなかった。
ただ、静かに頷いた。
その沈黙が、ありがたかった。
部屋へ戻った私は、もう一度セドリック様の手紙を開いた。
嬉しいと書いてくださったことが、私も嬉しかったです。
父の言葉も、まだ胸の中に残っている。
跡継ぎとしてではなく、私の娘として。
今日は、受け取りきれない言葉が多すぎる。
けれど、以前の私ならすべて扇で払い落としていたかもしれない。
今は、少しだけ持っていてもいい気がした。
私は便箋を取り出す。
返事はすぐには書かないつもりだった。
けれど、書きたい言葉が浮かんでしまった。
――嬉しいと言っていただけたことを、私も嬉しく思いました。
そこまで書いて、私はペンを止めた。
まるで同じ言葉を返しているだけではないか。
でも、それでいいのかもしれない。
会話とは、時に同じ言葉を返し合うことで、少しずつ意味を変えていくものなのだろう。
私は続けて、焼き菓子について書いた。
蜂蜜、胡桃、林檎。
その三つについては、判断材料として確かに受領したこと。
ただし、次回追加申告がある場合は、実物の比較が必要になるかもしれないこと。
書き終えてから、私は固まった。
「……私は何を書いているのかしら」
完全に、調子を崩されている。
でも、不思議と消す気にはなれなかった。
窓の外では、夕暮れの光が庭を淡く染めている。
私は封をする前に、最後に一文を足した。
――次にお話しできる日を、少し楽しみにしております。
書いた後、しばらく便箋を見つめた。
少し。
少しだけ。
その言葉に逃げ道を残しているあたり、私はまだ臆病なのだと思う。
けれど、それでも書いた。
嬉しいと言われると、逃げ道がない。
だから私も、少しだけ逃げずに返してみることにした。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
セドリックの言葉だけでなく、父エドモンドからの言葉も、シャロンの中に少し届いたようです。
次回もよろしくお願いします。




