第14話 嬉しいという言葉は、思ったより強い
読みに来てくださりありがとうございます。
今回はシャロンからの返事を受け取ったセドリック側のお話です。
手紙のやり取りが、少しずつ二人らしい会話になっていきます。
楽しんでいただけたら嬉しいです。
シャロン嬢からの返事は、夕方前に届いた。
その知らせを受けた時、セドリックはグランフェル家の小書斎にいた。
そこは家族が内々の相談や簡単な書類仕事に使う部屋で、今はノエルとともに、ハイレン領の市についての記録表を確認していた。
父ギルバートの指示で、領地の管理人へ送る文面を整理していたのだ。
雨の日の市。
村ごとの荷の到着時刻。
荷車が止まりやすい場所。
市の配置図。
これまでも気にはなっていた問題だった。
けれど、どこか後回しになっていた。
ハイレン領は武門伯爵家の領地であり、治安や訓練、領兵の管理には力を入れてきた。
だが、市の人の流れや商いの細かな配置までは、正直なところ優先順位が低かった。
それを、シャロン嬢は地図を見ただけで拾い上げた。
ただ道を見るのではなく、その道を通る人を見る。
ただ市を見るのではなく、そこに集まる人の動きを考える。
彼女の目は、鋭い。
そして、優しい。
本人にそう言えば、きっと扇で口元を隠して「優しさではなく実務です」と言うだろう。
そう考えてしまい、セドリックは小さく口元を緩めた。
「兄上?」
向かいの椅子に座っていたノエルが、不思議そうに顔を上げた。
彼の前には、まだ書きかけの記録表が置かれている。
天候。
村名。
荷の種類。
到着予定時刻。
実際の到着時刻。
遅延理由。
停止場所。
備考。
ノエルは真面目な顔でそれらを並べていた。
「何でもない」
「そうですか?」
「ああ」
「今、少し笑っていました」
「……そうか」
「はい」
ノエルはそれ以上追及しなかった。
代わりに、少しだけ視線を落とす。
「兄上」
「何だ」
「この記録表、細かすぎるでしょうか」
セドリックは、弟の書いた紙へ目を向けた。
整った文字。
項目ごとにきっちり分けられた線。
まだ十四歳の少年が作ったものとしては、かなり見やすい。
「いや。よく整理されている」
「本当ですか?」
「ああ。少なくとも、私が一から作るより見やすい」
ノエルの表情が、少しだけ明るくなった。
その変化は小さい。
けれど、セドリックにはわかった。
剣の稽古の時、ノエルはいつもどこか緊張している。
兄や父の期待に応えようとして、肩に力が入りすぎる。
けれど今、紙と数字を前にした彼は、少し違う顔をしていた。
自分の得意なことを、ようやく触っている顔だった。
「シャロン嬢のおかげですね」
ノエルがぽつりと言った。
「そうだな」
「まだお会いしたことはありませんが……すごい方ですね」
「すごい方だ」
セドリックは、ためらわずに頷いた。
その時、扉が叩かれた。
使用人が入り、銀の盆に乗せた封筒を差し出す。
「ベルフォール子爵家より、お手紙が届いております」
セドリックは静かに受け取った。
その瞬間、ノエルが少しだけ目を丸くした。
「シャロン嬢からですか」
「ああ」
「読まないのですか?」
「読む」
なぜか、封を切る指先が少しだけ慎重になった。
手紙のやり取りはもう何度かしている。
それでも、彼女からの返事を開く時は、どこか姿勢を正したくなる。
封を開くと、いつも通り整った文字が並んでいた。
地図を持参したことへの礼。
助言を記録に残すと伝えたことへの感謝。
ノエルが記録表に関心を持ったことについて、自分の意見が少しでも役立つなら嬉しいという言葉。
そして。
――私の言葉を、私の名前で扱ってくださったことを、嬉しく思います。
その一文で、セドリックは手を止めた。
嬉しく思います。
ただそれだけの言葉だった。
けれど、胸にまっすぐ届いた。
シャロン嬢は、嬉しかったのだ。
彼女はきっと、その一文を書くまでに迷っただろう。
消すかどうか考えたかもしれない。
礼儀としてなら自然だと言い聞かせたかもしれない。
それでも、書いてくれた。
嬉しい、と。
「兄上?」
ノエルが不思議そうに声をかける。
「大丈夫ですか」
「ああ」
「何か、難しいことが?」
「いや」
セドリックは便箋から視線を上げた。
「嬉しいことが書いてあった」
口にした瞬間、自分でも少し驚いた。
隠さなかった。
取り繕わなかった。
ノエルは一瞬きょとんとして、それから柔らかく笑った。
「よかったですね」
「ああ」
自然に頷いていた。
よかった。
そう思った。
彼女の言葉が、彼女の名前で残ること。
それを彼女が嬉しいと感じてくれたこと。
そして、その気持ちをこちらへ伝えてくれたこと。
それらが、すべて嬉しかった。
セドリックは続きを読んだ。
記録表について、もし役立つなら項目の整理を提案できること。
ただし実際の運用はハイレン領の管理人の意見も聞くべきだということ。
現場の負担になりすぎる記録は続かないため、最初は簡潔な形から始めた方がよいということ。
実にシャロン嬢らしい。
的確で、押しつけがましくなく、実務的だった。
ノエルがそわそわとこちらを見ている。
「兄上」
「どうした」
「その……記録表について、何か書かれていましたか」
「ああ。現場の負担になりすぎる記録は続かない。最初は簡潔にした方がいい、と」
ノエルは、はっとした顔になった。
そして自分の紙を見る。
「……項目、多いでしょうか」
「必要なものは多い。ただ、最初からすべて埋めさせると大変かもしれないな」
「では、重要な項目を分けた方がいいですね。必ず記録するものと、余裕があれば記録するものに」
「それは良いと思う」
ノエルはすぐに紙へ向き直った。
先ほどまで不安げだった顔が、少し前向きになる。
セドリックはその様子を見て、静かに息を吐いた。
また一つ、シャロン嬢の言葉が動いた。
まだ彼女は、ここに来ていない。
ハイレン領を見ていない。
ノエルと会ってすらいない。
それなのに、彼女の考えはすでにこの家の中で生き始めている。
そのことを、どう伝えればいいだろう。
考えながら手紙の最後まで視線を落とし、セドリックは一瞬固まった。
――焼き菓子についての正直な申告も、確かに承りました。
――次回は、どの焼き菓子が特にお好きなのかも、判断材料として伺えればと思います。
判断材料。
セドリックは便箋を見つめた。
焼き菓子の好みが、何の判断材料になるのだろうか。
いや、きっとこれは彼女なりの冗談だ。
からかいだろう。
そう理解した瞬間、じわじわと気恥ずかしさが込み上げてきた。
「兄上?」
ノエルが再び声をかける。
「今度は何か、難しいことが?」
「……焼き菓子の話だ」
「焼き菓子」
「次回、どの焼き菓子が特に好きなのかを聞きたいと」
ノエルは少し考え込んだ。
そして真面目に言った。
「兄上なら、蜂蜜の焼き菓子では?」
「そうだな」
「あと、胡桃の入ったものもお好きですよね」
「ああ」
「それから、林檎を煮たものを包んだ焼き菓子も」
「……詳しいな」
「家族ですので」
ノエルは当然のように言った。
その顔があまりにも真面目で、セドリックは返す言葉を失った。
家族には、本当にすべて知られている。
その時、また扉が開いた。
今度は母アメリアだった。
「あら、二人ともここにいたのね」
「母上」
「ベルフォール家からお手紙が届いたと聞いたから」
なぜそれを聞いてすぐ来るのか。
いや、母だからだ。
理由はそれで足りる。
アメリアは部屋へ入るなり、セドリックの顔を見た。
そして、にっこり笑った。
「あら」
「母上」
「まだ何も言っていないわ」
「言う前の顔です」
「あなた、だいぶ私の顔を読むのが上手くなってきたわね」
「必要に迫られました」
「良いことよ」
アメリアは楽しそうに笑い、机の上の便箋へ視線を向けた。
「シャロン嬢は何と?」
「助言を記録に残すことについて、嬉しく思うと書いてくださいました」
母の表情が、ほんの少し柔らかくなった。
「そう」
「はい」
「よかったわね」
「はい」
今度は迷わず頷いた。
アメリアは満足そうに目を細めた。
「その返事、ちゃんと大事にしなさいね」
「もちろんです」
「それから、焼き菓子については?」
セドリックは、わずかに動きを止めた。
「なぜそこで焼き菓子が出るのですか」
「顔に書いてあるわ」
「書いてありません」
「書いてあるのよ。あなた、甘いものの話になるとほんの少し困った顔をするもの」
「……」
否定できなかった。
ノエルが横で小さく頷いている。
「ノエル」
「すみません。でも、兄上はわかりやすい時があります」
「そうか」
「はい」
弟にまで言われてしまった。
アメリアは笑いをこらえる様子もなく、優雅に椅子へ座った。
「それで、何と書かれていたの?」
「次回は、どの焼き菓子が特に好きなのかも判断材料として聞きたい、と」
言いながら、やはり少し気恥ずかしくなる。
アメリアは目を輝かせた。
「まあ」
「母上、その顔はやめてください」
「素敵じゃない」
「焼き菓子の話です」
「ええ。焼き菓子の話ね」
絶対にそれだけだと思っていない顔だった。
「素直に答えればいいのよ」
「そうするつもりです」
「蜂蜜、胡桃、林檎でしょう?」
「……なぜ母上も即答なのですか」
「母ですもの」
便利な言葉だ。
そして強い。
「でも」
アメリアは少しだけ声を落とした。
「シャロン嬢がそういう冗談を返してくれるようになったのなら、良いことね」
セドリックは手紙へ視線を落とした。
確かにそうだ。
初めて会った頃のシャロン嬢なら、こんなふうにからかう一文を添えただろうか。
いや、彼女は最初から皮肉は上手かった。
街角でも、お見合いでも、鋭い言葉を投げてきた。
けれど今の一文には、ただ相手を遠ざけるための鋭さだけではない。
少しだけ、こちらに向けた親しみがある。
そう思うのは、自惚れだろうか。
「セドリック」
アメリアが静かに言った。
「はい」
「嬉しいことは、嬉しいと伝えていいのよ」
その言葉に、セドリックは顔を上げた。
母の目は、からかっていなかった。
「シャロン嬢はきっと、相手の言葉の裏を読む方よ。これまでそうせざるを得なかったのでしょうね。だからこそ、あなたはできるだけまっすぐ返してあげなさい」
「まっすぐ……」
「ええ。変に飾らなくていいわ。でも、隠しすぎてもだめ」
父と似たことを言う。
尊重することと、何も差し出さないことは違う。
その言葉がまた、胸に残る。
「わかりました」
セドリックは頷いた。
「では、返事にはこう書きます」
「ええ」
「嬉しいと書いてくださったことが、私も嬉しかった、と」
ノエルが少し目を丸くした。
アメリアは、ゆっくりと微笑む。
「いいと思うわ」
「重くはないでしょうか」
「あなたが本当にそう思っているなら、重くはないわ」
「そうですか」
「ええ。むしろ、言葉にしない方が伝わらないこともあるの」
セドリックは、しばらく考えた。
そして手紙を丁寧に机へ置く。
「書いてみます」
「ええ」
アメリアは立ち上がった。
去り際に、ノエルの記録表へ目を向ける。
「ノエル」
「はい、母上」
「その表、あとで私にも見せてね」
「はい」
「とても見やすそうだわ」
ノエルの表情が、また少し明るくなった。
母は人をよく見ている。
シャロン嬢と、少し似ている。
そう思った。
母が小書斎を出た後、セドリックは新しい便箋を取り出した。
シャロンへの返事を書く。
まずは礼を。
彼女の言葉が自分たちにとってどれほど助けになったかを。
ノエルが記録表を作り始めたことを。
そして、彼女が嬉しいと書いてくれたことへの返答を。
ペン先を置く前に、少しだけ息を整える。
それから、書いた。
――嬉しいと書いてくださったことが、私も嬉しかったです。
たった一文。
けれど、書いた瞬間、胸の奥が静かに熱を持った。
これは恋文ではない。
たぶん。
少なくとも、今はまだそう呼ぶには早い。
けれど、ただの礼状でも、領地相談でもない。
シャロン嬢の言う通り、これは会話の続きなのだろう。
セドリックは、追伸に焼き菓子の好みを書き添えた。
蜂蜜の焼き菓子。
胡桃入りのもの。
林檎を煮たものを包んだもの。
最後に少し迷い、もう一文加える。
――判断材料として、不足があれば次回追加で申告します。
書いてから、セドリックは自分で少し笑ってしまった。
彼女に調子を崩されている。
それはもう、認めるしかないのかもしれなかった。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
シャロンの「嬉しい」という言葉は、セドリックにもかなり届いたようです。
焼き菓子の好みまで判断材料になり始めました。
次回もよろしくお願いします。




