第12話 地図の向こうで、名前が残りました
読みに来てくださりありがとうございます。
今回はグランフェル家側のお話です。
シャロンの言葉が、ハイレン領の中で少しずつ動き始めます。
楽しんでいただけたら嬉しいです。
ベルフォール家から戻ったセドリックは、まず自室へ向かうつもりだった。
ハイレン領の地図を持ち帰り、今日の話を整理する。
シャロン嬢から受けた助言を忘れないうちに書き留め、父へ報告する。
そのつもりだった。
だが、玄関広間を抜けたところで、待ち構えていたように母が立っていた。
「おかえりなさい、セドリック」
「ただいま戻りました、母上」
アメリアは穏やかに微笑んでいる。
その笑顔を見た瞬間、セドリックは背筋を伸ばした。
客人向けの笑顔ではない。
家族へ向ける普通の笑顔でもない。
すべてを見抜いた上で、必要なことを聞き出すつもりの笑顔だった。
「ずいぶん丁寧に地図を抱えて帰ってきたのね」
「地図ですから」
「あら。地図だけ?」
「……シャロン嬢から、いくつか有益な意見をいただきました」
「そうでしょうね」
母は当然のように頷いた。
なぜ当然なのか。
そう尋ねても、きっと母は「顔に書いてあるわ」と言うだろう。
セドリックは抵抗を諦めた。
「父上は?」
「書斎よ。あなたが戻ったら来るように、と」
「承知しました」
「私も同席していいかしら」
「もちろんです」
断れるはずがなかった。
セドリックが書斎へ向かうと、父ギルバートはすでに机の前に座っていた。
濃灰色の髪に、鋼色の瞳。
外では威厳ある武門伯爵として知られる父は、今日も表情を変えずにセドリックを見た。
「戻ったか」
「はい」
「地図は?」
「こちらに」
セドリックは筒から地図を取り出し、机の上へ広げた。
ハイレン領の領都。
周辺の村。
市が開かれる広場。
雨の日に荷車が止まりやすいとされる道。
父は黙って地図を見る。
そこへアメリアが静かに入ってきて、当然のように椅子へ腰を下ろした。
「続けて」
母に促され、セドリックは頷いた。
「シャロン嬢は、まず記録を取るべきだとおっしゃいました」
「記録?」
ギルバートが目を細める。
「はい。雨の日に、どの村からの荷がどれだけ遅れるのか。どの場所で荷車が止まりやすいのか。何を運んでいる時に影響が出るのか。それを数回分、確認した方がよいと」
「道を直せ、ではなくか」
「はい」
セドリックは地図の一点を指した。
「道を整えるには費用がかかります。ですが、感覚で進めると、声の大きい者が使う道から優先される可能性がある、と」
ギルバートの表情がわずかに変わった。
それは、感心に近い変化だった。
「なるほど」
「それから、市の配置図も必要だと」
「市の配置?」
「雨の日に人がどこで滞るのか。どの店の前で流れが切れるのか。食べ物や日用品の店をどこに置くかで、人の流れが変わる可能性があるそうです」
「そこまで見たのか」
「地図だけで、です」
セドリックは静かに答えた。
言いながら、ベルフォール家の応接室で地図を覗き込んでいたシャロンの姿を思い出す。
艶のある銀髪が肩先で揺れ、青紫の瞳が地図の線を追っていた。
彼女はただ見ていたのではない。
道の先にある村を、市へ集まる人々を、雨に足を取られる荷車を、その場にいるかのように想像していた。
そして、自然に考えていた。
どうすれば少し良くなるかを。
「シャロン嬢は、ハイレン領を見たことがありません」
セドリックは続けた。
「それでも、地図と手紙の情報だけで、問題の見方を示してくださいました」
ギルバートはしばらく黙っていた。
アメリアも、今はからかうような顔をしていない。
深い緑の瞳で、地図を見つめている。
「ベルフォール家の長女として育てられただけはあるな」
父が低く言った。
その言葉に、セドリックは少しだけ眉を動かした。
「父上」
「何だ」
「それだけではないと思います」
ギルバートがセドリックを見た。
セドリックは、ゆっくりと言葉を選んだ。
「跡継ぎとして育てられたから、知識はあるのでしょう。経験もある。ですが、あの方が地図を見る目は、役目だけで身についたものではないと思います」
アメリアが、ほんの少しだけ微笑んだ。
「では、何だと思うの?」
「人を見ているのだと思います」
口にしてから、セドリック自身も納得した。
そうだ。
シャロンは道だけを見ていたのではない。
市だけを見ていたのでもない。
雨の日に荷が遅れる商人。
品物が届かず困る店。
買い物を早く済ませて帰る領民。
道を直す費用を負担する領主側。
そうした人の動きを、彼女は見ていた。
「シャロン嬢は、数字や道の先にいる人のことを考えておられました」
セドリックは言った。
「だから、彼女の意見には形だけではない重みがあるのだと思います」
書斎に、静かな沈黙が落ちた。
しばらくして、ギルバートが低く息を吐いた。
「……良い目を持つ令嬢だ」
「はい」
「そして、お前もずいぶん彼女をよく見ている」
セドリックは一瞬、言葉に詰まった。
アメリアが楽しそうに目を細める。
「そうね。地図の報告のはずなのに、途中からシャロン嬢の報告になっていたわ」
「母上」
「違うの?」
「……違わないかもしれません」
取り繕うのはやめた。
虚偽申告は減点である。
アメリアは満足そうに笑った。
「よろしい」
ギルバートは地図へ視線を戻した。
「市の記録については、すぐに管理人へ命じる。雨の日を待つ必要はあるが、晴天時の人の流れも確認しておくべきだな」
「はい。比較するために必要だと思います」
「配置図も用意させろ」
「承知しました」
「それから」
ギルバートは地図の端を指で叩いた。
「この意見は、シャロン嬢からの助言として記録に残す」
セドリックは顔を上げた。
「よろしいのですか」
「なぜだ」
「まだ正式な婚約者ではありません」
「だからこそだ。グランフェル家の者ではない令嬢が、外から見て示した意見だ。誰の言葉かを曖昧にして、こちらの功績のように扱うべきではない」
父の声は静かだった。
だが、そこには当主としての筋が通っていた。
セドリックの胸に、熱に似たものが広がる。
「ありがとうございます」
「お前が礼を言うことか」
「……そうですね」
それでも、礼を言わずにはいられなかった。
シャロンが差し出した言葉が、ただの縁談中の雑談として流されない。
きちんと彼女の名とともに残る。
そのことが、なぜか自分のことのように嬉しかった。
「あなた」
アメリアがギルバートへ視線を向けた。
「この件、ベルフォール家へも一言お礼を伝えた方がいいわね」
「ああ」
「ただし、あまり堅苦しくしすぎると、シャロン嬢が身構えるかもしれないわ」
「なぜだ」
「彼女、きっと自分の言葉が正式に扱われることに慣れているようで、慣れていないでしょうから」
セドリックは母を見た。
「母上も、そう思われますか」
「ええ」
アメリアの声が、少し柔らかくなった。
「跡継ぎとして評価されることには慣れている。でも、シャロン・ベルフォール個人として喜ばれることには、まだ慣れていない。そんなふうに見えるわ」
セドリックは、ベルフォール家での彼女の表情を思い出した。
あなたが真剣に向き合ってくださったことが、嬉しかったのです。
そう伝えた時、シャロンは言葉に詰まっていた。
不快ではありません。
ただ、慣れていないだけです。
あの言葉は、彼女の本音に近かったのだと思う。
「急がないことだ」
ギルバートが言った。
「だが、引きすぎるな」
セドリックは父を見る。
「母上にも、同じことを言われました」
「なら、覚えておけ」
「はい」
「相手を尊重することと、何も差し出さないことは違う」
その言葉は、重かった。
セドリックは相手の意思を尊重したいと思っている。
無理に踏み込むべきではない。
シャロンの傷を急かすべきではない。
けれど、待つだけでは届かないものもある。
言葉にしなければ、伝わらないものがある。
「心得ます」
セドリックは静かに答えた。
アメリアは満足そうに頷いた。
「それで、セドリック」
「はい」
「今日、焼き菓子は出たの?」
「……出ました」
急に話題が変わった。
いや、母にとっては自然な流れなのかもしれない。
「召し上がった?」
「はい」
「虚偽申告なく?」
「虚偽申告なく」
「よろしい」
アメリアはにこりと笑った。
ギルバートが低く咳払いをする。
「何の話だ」
「大事な話よ」
「そうか」
父は深く追及しなかった。
おそらく、面倒だと思ったのだろう。
セドリックは助かったような、助からなかったような気持ちで地図を巻き直した。
その時、扉が軽く叩かれた。
「父上、兄上。入ってもよろしいですか」
ノエルの声だった。
「入れ」
扉が開き、ノエルが顔を出す。
柔らかいダークブラウンの髪に、灰緑色の瞳。
真面目な弟は、書斎に広げられた地図を見ると、少しだけ目を輝かせた。
「ハイレン領の地図ですか」
「ああ」
「市の記録について話していた」
ギルバートが言うと、ノエルはすぐに机へ近づいた。
「市の記録……ですか」
セドリックは弟の表情を見た。
剣の稽古の話をする時より、ずっと自然な顔だった。
緊張より、興味が勝っている。
「雨の日に、どの村からの荷がどれだけ遅れるかを記録する。シャロン嬢の助言だ」
「すごいですね」
ノエルは素直に言った。
「確かに、ただ道を直すより、まず記録した方が無駄が少ないと思います」
ギルバートがノエルを見た。
「お前なら、どう記録する」
「えっ」
突然問われ、ノエルは背筋を伸ばした。
「ええと……村ごとに表を分けます。市の日、天候、荷の種類、到着時刻、遅れた理由、荷車が止まった場所を記録して……晴れの日と雨の日で比べた方がいいと思います」
言ってから、ノエルは少し不安そうに口を閉じた。
「すみません。思いつきです」
「いや」
ギルバートは短く言った。
「悪くない」
ノエルの目がわずかに見開かれた。
セドリックは、弟の表情を見逃さなかった。
剣の腕を褒められた時とは違う。
そこには、ほっとしたような、信じられないような色があった。
アメリアがそっと微笑む。
「ノエル、その記録表の形を考えてみる?」
「私が、ですか」
「あなた、こういう整理は得意でしょう」
「でも、私はまだ……」
「まだ、で止める必要はない」
ギルバートが言った。
「できるところからやればいい」
ノエルはしばらく黙っていた。
それから、小さく頷いた。
「はい。やってみます」
セドリックは、静かに息を吐いた。
シャロンの一言が、ここにも届いた。
ハイレン領の市の問題だけではない。
ノエルが自分の得意なことに目を向ける、小さなきっかけになった。
もちろん、まだ大きく変わるわけではない。
弟はまだ騎士への憧れを手放せないだろう。
自分には剣しかないと思い込もうとする日もあるだろう。
けれど、小さな道が一本できた。
地図には描かれていない道が。
「兄上」
ノエルが、少しだけ遠慮がちにセドリックを見た。
「シャロン嬢は、どんな方なのですか」
その問いに、セドリックは少し考えた。
凛とした銀髪の令嬢。
青紫の瞳で、こちらの誤魔化しを見抜く人。
強くあろうとして、時々ほんの少しだけ不器用さが見える人。
そして、地図の向こうにいる人々まで考えられる人。
「簡単には説明できない方だ」
セドリックは答えた。
ノエルが少し不思議そうに首をかしげる。
「怖い方ですか?」
「少し」
正直に言うと、アメリアが笑った。
「でも、怖いだけの方ではない」
「はい」
セドリックは頷いた。
「とてもまっすぐで、よく見ていて、簡単に自分を偽らない方だと思う」
「兄上がそう言うなら、きっと素敵な方ですね」
ノエルはそう言った。
その言葉に、セドリックは返事をしかけて、止まった。
素敵な方。
そうだと思う。
けれど、それを口にするには、少し照れがあった。
アメリアが見逃すはずもなかった。
「あら」
「母上」
「何も言っていないわ」
「言う前の顔でした」
「あなたも少しわかるようになってきたのね」
母は嬉しそうに笑った。
セドリックは返す言葉を諦めた。
その日の夜、自室に戻ったセドリックは、机に向かった。
地図に関する報告は終えた。
父も動いてくれる。
ノエルも記録表を考えることになった。
だが、まだ書くべきものがある。
シャロンへの手紙だ。
セドリックは便箋を広げ、ペンを取った。
今日の礼。
助言を父に伝えたこと。
その意見を、シャロン嬢からのものとして記録に残すこと。
市の配置図を用意すること。
ノエルが記録表に興味を持ったこと。
そこまで書いて、手が止まった。
伝えたいことは、まだある。
あなたの言葉が、ハイレン領の中で動き始めました。
そう書きかけて、少し迷う。
重すぎるだろうか。
彼女は身構えるだろうか。
けれど、伝えないままにするのは違う気がした。
尊重することと、何も差し出さないことは違う。
父の言葉がよみがえる。
セドリックは、ゆっくりとペンを動かした。
――本日いただいた言葉は、私だけでなく、父や弟にも届きました。
――まだ形になるのは先ですが、ハイレン領の中で、小さく動き始めています。
――改めて、ありがとうございました。
書き終えて、しばらく便箋を見つめる。
飾った言葉ではない。
甘い言葉でもない。
けれど、今の自分にとっては、これが一番誠実な言葉だった。
最後に、少しだけ迷ってから追伸を書いた。
――本日の焼き菓子も、大変美味しかったです。虚偽申告ではありません。
書いてから、セドリックは小さく息を吐いた。
これでいいのかは、わからない。
けれど、シャロンならきっと、呆れたように扇で口元を隠すだろう。
そして少しだけ、目元をやわらげるかもしれない。
その表情を想像してしまい、セドリックはペンを置いた。
地図の向こうで、彼女の名前が残った。
そして自分の中にも、彼女の言葉が残っている。
それが何という感情なのか、まだはっきりとはわからない。
けれど、次に会った時。
もう少し踏み込んで、自分の言葉で伝えてみたい。
そう思った。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
地図をきっかけに、シャロンの意見がグランフェル家にも届きました。
セドリックだけでなく、ノエルにも小さな変化がありそうです。
次回もよろしくお願いします。




