第101話 好きだと言えたことを、持ち帰ります
読みに来てくださりありがとうございます。
今回はハーディ夫人の茶会後、シャロンが家族へ報告するお話です。
市の話を「好き」と言えたことが、シャロンにとって大切な一歩になります。
楽しんでいただけたら嬉しいです。
ハーディ伯爵家を出る時、私は思っていたより疲れていた。
足元がふらつくほどではない。
けれど、胸の奥にずっと張っていた糸が、少しずつ緩んでいくような感覚があった。
茶会は終わった。
初めての社交の場。
婚約者として正式に紹介される場。
噂の後、私が隠れずに出た最初の場。
無風ではなかった。
けれど、嵐でもなかった。
セドリック様は、約束通り茶会の終わる頃に迎えに来てくださった。
その事実だけで、私は本当に少しほっとした。
玄関前で、ハーディ夫人が穏やかに言った。
「シャロン嬢、本日はよくお越しくださいました」
「こちらこそ、ありがとうございました」
「今日は、十分です。すべてに完璧に返す必要はありません」
「……はい」
「でも、あなたは必要な線を引かれましたね」
その言葉に、胸の奥が少し熱くなる。
自分では、うまくできたのかまだわからない。
エヴァンズ夫人に市の話を振られた時、胸が強張った。
便利な令嬢という言葉が、頭の隅をよぎった。
それでも、私は答えた。
婚約は領地の助言のために進んでいるものではない。
市を見たことも、互いを知る確認の一つだった。
そして、今後のことは両家で確認しながら進めている、と。
それは完璧な返答ではなかったかもしれない。
でも、私の言葉だった。
「ありがとうございます」
私はもう一度、礼を取った。
ハーディ夫人は微笑む。
「次は、少しだけ楽にお茶を飲めるといいですね」
「はい。そうなれたら嬉しいです」
そう答えてから、少し驚いた。
嬉しいです、と言えた。
茶会に対して、次も全部怖いだけではないと思えた。
馬車へ向かう途中、セドリック様が横に並んだ。
母とアメリア様は少し前を歩いている。
完全に二人きりではないが、声を落とせば少しだけ話せる距離だった。
「シャロン嬢」
「はい」
「お疲れではありませんか」
「疲れています」
私は正直に答えた。
セドリック様は一瞬だけ目を瞬かせ、それから柔らかく頷いた。
「正確なご報告、ありがとうございます」
「大丈夫ですと答えかけました」
「私も、聞き方を少し迷いました」
「大丈夫ですか、と聞かれていたら、大丈夫ですと答えた可能性が高いです」
「では、次から気をつけます」
真面目に返されて、少し笑ってしまった。
「茶会は」
セドリック様がそこで一度言葉を切った。
「今ここで詳しく伺うより、まずお休みになった方がよいですね」
「詳しくは、屋敷へ戻ってから帳面に書きます」
「はい」
「ただ、一つだけ」
「はい」
「市の話を、好きだと言えました」
セドリック様の表情が、静かに変わった。
驚きではない。
とても柔らかい、喜びのようなもの。
「そうですか」
「はい」
「それは、とても大切な確認ですね」
「確認、でしょうか」
「はい。役目だからでも、誰かに求められたからでもなく、シャロン嬢ご自身が好きだと言えたことですから」
胸の奥が、また少し熱くなった。
好き。
市の配置。
人の流れ。
雨の日の荷の置き方。
商人の動き。
小さな変化が全体へどう影響するか。
それらを考えるのが、私は好きだった。
跡継ぎとして学んだから。
家の役に立つから。
そう思っていた。
もちろん、それもあった。
でも、それだけではなかった。
「……持ち帰って、帳面に書きます」
「ぜひ」
セドリック様が穏やかに言った。
「私も、今日迎えに来る形がシャロン嬢にとってどうだったか、確認表に書きます」
「確認表に?」
「はい」
「何と書くのですか」
セドリック様は少し考えた。
「茶会終了時の迎え、継続候補。シャロン嬢が少しほっとされた様子。今後も本人確認の上で運用」
「運用」
「……少し硬いですね」
「かなり」
二人で少しだけ笑った。
馬車の前に着くと、母がこちらを見た。
穏やかだが、そろそろ乗りなさいという目だった。
私はセドリック様へ礼を取る。
「本日は、迎えに来てくださりありがとうございました」
「約束でしたので」
「約束通りで、ほっとしました」
そう言うと、セドリック様は静かに目を細めた。
「それなら、来た甲斐がありました」
私は馬車に乗った。
窓の外で、セドリック様が礼を取る。
王都屋敷へ戻るのだろう。
私たちはベルフォール家へ戻る。
道は別れる。
けれど、今日の終わりに迎えに来てくださったことは、私の中に残った。
ベルフォール家へ戻ると、玄関にリディアとフローラがいた。
待っていた。
明らかに待っていた。
リディアは私を見るなり、駆け寄りかけ、途中で母に視線を向けて止まった。
礼儀を思い出したらしい。
「お帰りなさいませ、お姉様」
「ただいま」
「ご無事ですか」
「戦場ではないと言ったでしょう」
「王都社交です」
「またそれを言うのね」
フローラは静かに私を見た。
「お姉様、疲れていますね」
「ええ」
「でも、倒れそうではありません」
「観察が早いわ」
「報告会の実施可否を確認しています」
「少し休んでからにして」
私がそう言うと、リディアは一瞬残念そうな顔をしたが、すぐに頷いた。
「はい。お茶を飲んでからにします」
「またお茶?」
「茶会後の報告会なので、茶は必要です」
理屈が合っているような、いないような。
着替えを済ませ、少し休んだ後、小サロンで家族への報告会が始まった。
父も同席した。
茶会には出なかったが、近くで待機していたため、私たちの帰宅後すぐに話を聞きたいとのことだった。
リディアとフローラは、いつになく真剣な顔で座っている。
母は私の隣。
父は少し離れた椅子。
まるで小さな審問のようだった。
「では」
フローラが口を開く。
「茶会の概要からお願いします」
「あなたが進行するの?」
「必要かと」
「必要ではないわ」
父が静かに言った。
「シャロンの話したい順でよい」
「はい」
フローラは素直に引いた。
少しだけ不満そうだった。
私は深く息を吸う。
「ハーディ夫人は、とても心強い方でした。最初に、無理に強く振る舞わなくていいとおっしゃってくださいました」
母が頷く。
「ええ」
「招かれていたのは、ルクレール夫人とエヴァンズ夫人でした。お二人とも、礼儀を守ってくださいました」
「探りはありましたか」
フローラが尋ねる。
「少し」
リディアの顔がすぐに険しくなる。
「誰ですか」
「悪意というほどではないわ。エヴァンズ夫人が、ハイレン領の市を見たことについて尋ねられたの」
「それは……」
リディアが言葉を止める。
今の状況では、領地や市の話題は慎重になる。
けれど、それ自体が悪意とは限らない。
私は頷いた。
「私も少し強張りました。でも、婚約が領地の助言のために進んでいるものではなく、市を見たことも互いを知る確認の一つだと答えました」
父の目が静かに細められる。
「よい返答だ」
「その後で、両家で確認しながら進めております、と」
フローラが小さく頷いた。
「避難文が機能しましたね」
「機能したわ」
「よかったです」
リディアはほっとしたように息を吐いた。
「それで、その後は?」
「アメリア様が、私が領地を見る目を持っているのは事実だけれど、それを便利という言葉で扱うことは望んでいないと、はっきり言ってくださいました」
リディアの目が潤んだ。
「アメリア様……」
「泣かないで」
「少しだけです」
「最近そればかりね」
父が低く言った。
「ハーディ夫人は?」
「才や経験は人を測る道具ではなく、その方が歩んできたものだと」
言葉にすると、また胸が温かくなる。
フローラが静かに繰り返した。
「歩んできたもの」
「ええ」
「良い言葉です」
「帳面に書くわ」
「ぜひ」
リディアが身を乗り出す。
「他には?」
私は少し迷った。
市の話を好きだと言えたこと。
これを言うのは、少し恥ずかしい。
けれど、持ち帰ると決めた。
私は指先を膝の上で軽く重ねる。
「エヴァンズ夫人が、ご自身の領地の市の話をしてくださいました。馬車の通り道や、雨の日の荷の置き方や、商人の場所取りの話で」
「お姉様が好きそうです」
リディアが即座に言った。
「ええ」
私は頷いた。
「好きだと、言えました」
小サロンが静かになった。
ほんの少しの沈黙。
それから、母がとても柔らかく微笑んだ。
「そうね」
「はい」
「よかったわ」
父も静かに頷いた。
「それは大事だな」
リディアは目を丸くしている。
「お姉様が、自分で好きだと」
「そんなに驚くこと?」
「少し」
フローラが静かに言う。
「いえ、かなりです」
「フローラ」
「お姉様は、領地のことを役目や責任として語ることが多かったので。好きだと言えたのは、大きいと思います」
私は視線を落とした。
「そうかもしれないわ」
領地のことを考えるのは、私の役目だった。
跡継ぎとして学び、帳簿を読み、父の隣で聞いた。
それを失った時、私には何も残らないような気がした。
でも、違ったのかもしれない。
役目を失っても、好きだった気持ちは残っていた。
そのことを、今日、初めて言葉にできた。
「便利だからではなく、好きだから見ていた部分もあったのね」
私が言うと、リディアがまた泣いた。
「だから泣かないで」
「無理です」
「今日は何回目?」
「一回目です」
「本当に?」
「たぶん」
フローラが淡々と言う。
「目元準備状態は三回ありました」
「記録していたの?」
「観察です」
少し笑いが戻った。
その後、私はセドリック様が迎えに来てくださったことも話した。
茶会の終わる頃。
約束通り。
玄関近くの控えの間にいてくださったこと。
そして、少しほっとしたと伝えたこと。
リディアは両手を頬に当てた。
「お姉様」
「何」
「それは、とても婚約者です」
「どういう意味」
「わかりません。でも、とても婚約者です」
「また根拠のない断定」
「今回は根拠があります」
「何」
「迎えに来てくださって、ほっとしたのですよね?」
「……はい」
「婚約者です」
父が咳払いをした。
母は微笑んでいる。
フローラは真面目に頷いている。
「分類としては妥当です」
「フローラまで」
「茶会後の支えとして、非常に適切でした」
「実務評価に逃げたわね」
「少し」
私は顔が熱くなるのを感じながら、茶を飲んだ。
報告会は、思っていたより疲れた。
けれど、話してよかった。
怖かったこと。
線を引けたこと。
好きだと言えたこと。
迎えに来てもらってほっとしたこと。
全部、家族に伝えられた。
その夜、王都屋敷では、セドリックが茶会の報告を確認していた。
ハーディ夫人から短い文が届いていたのだ。
茶会は大きな問題なく終わったこと。
シャロン嬢が一度、自分の言葉で線を引いたこと。
エヴァンズ夫人の市の話題に対し、最終的には「好きです」と答えたこと。
場は穏やかに収まり、初回としては十分だったこと。
セドリックは、そこで深く息を吐いた。
「好きです、と」
小さく呟く。
市の話を。
領地を見ることを。
シャロン嬢が、自分の好きなものとして言えた。
それは、正式な婚約の言葉と同じくらい大切な一歩かもしれない。
セドリックは確認表に書き足した。
初回茶会。
シャロン嬢、自分で線を引く。
市の話を好きだと言えた。
茶会終了時、迎えにより安堵。
今後の茶会でも終了時の支え方を確認。
そこまで書いた時、別の文が添えられていることに気づいた。
ハーディ夫人の追伸だった。
――茶会後、エヴァンズ夫人の馬車付きの従者に、見知らぬ男が声をかけたとの報告がありました。茶会の内容、特にシャロン嬢のご様子を尋ねたようです。従者は答えず、ハーディ家の者が近づくと男は去りました。ベリス夫人との関係は未確認です。ただし、茶会の内容を探ろうとする者がいることは、両家へ共有すべきと判断いたします。
セドリックの表情が静かに引き締まった。
茶会は無事に終わった。
だが、外ではもう探りが動いている。
シャロン嬢がどう振る舞ったか。
何を言ったか。
怯えたのか。
崩れたのか。
強がったのか。
それを知りたがる者がいる。
セドリックは文を丁寧に畳んだ。
怒りはある。
だが、ここでも断定はしない。
見知らぬ男。
エヴァンズ夫人の従者へ接触。
茶会内容を質問。
ハーディ家の者が近づくと去った。
ベリス夫人との関係は未確認。
確認できたことだけを、まず記録する。
セドリックは父ギルバート宛て、そしてベルフォール家宛てに、すぐ報告を書き始めた。
茶会は成功した。
シャロン嬢が自分の言葉で立った。
しかし、茶会後に内容を探る動きがあった。
両方を、同じ文に入れる。
喜ぶことを消さない。
警戒も消さない。
それは、シャロン嬢が今日持ち帰ったものと同じだ。
夜遅く、私は帳面を開いていた。
茶会。
ハーディ夫人。
ルクレール夫人。
エヴァンズ夫人。
市の話。
少し強張った。
線を引けた。
好きだと言えた。
セドリック様が迎えに来てくださった。
ほっとした。
報告会。
リディアが泣いた。
フローラが記録しかけた。
お父様がよい返答だと言ってくれた。
お母様がよかったわと言ってくれた。
最後に、私はもう一度書いた。
私は、市の話が好きです。
書いてから、しばらくその文字を見ていた。
好き。
役目ではなく。
条件ではなく。
便利だからでもなく。
私が好きなもの。
それを失っていなかったことが、嬉しかった。
怖い茶会だった。
疲れた。
胸が痛む瞬間もあった。
けれど、持ち帰れたものもある。
私は帳面を閉じ、静かに息を吐いた。
好きだと言えたこと。
それは今日、私が一番大事に持ち帰ったものだった。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
シャロンは茶会で傷つかない令嬢になったわけではなく、怖さを抱えたまま自分の言葉を持ち帰りました。
一方で、王都では茶会の内容を探る動きもあり、悪意はまだ完全には止まっていません。
次回もよろしくお願いします。




