第九話「新馬戦、開幕」
――十二時二十三分。発走までは五分をとうに切っている。本馬場入場も既に完了し、今は返し馬の時間だ。
カノンセレナーデが、悠々と芝を走る。力を抜いた状態で、ウォーミングアップとして流す走りだ。だが、それだけで違いはほとんど目に見えていた。
観客の誰かが、無意識に息を呑んだ。あれは新馬戦で見るようなサラブレッドではない。数分後にデビュー戦を迎える馬の走りではない。誰かがそう思った。誰かは、一人ではなかった。
時はあっという間に過ぎ去り、アナログ時計の秒針は五を指していた。
スターティングゲートに、発走委員が登る。片手には旗。仁川の風に乗って、その鮮やかな黄色がはためいている。
旗が上がる。
場内に、ファンファーレが響いた。
「芝千六百メートル新馬戦。各馬ゲートに入っていきます」
その直後、実況の音声が入る。競馬場の中、ネット放送、ラジオ。全てにアナウンサーの声が届いている。
「春の終盤、風が爽やかに吹いています今日この頃、十五頭がここでデビューを迎えます。さあ今入ったのは八番のカノンセレナーデ。尾花栗毛の馬体をスムーズに収めます」
一頭ずつ、ゲートの中に入れられていく。職員に軽く押されつつ、セレナもそこにゆっくりと収まった。全頭が入るまで、しばし待つ。
その間にも、彼女は確かに呼吸をして心を保っている。上にはこれまた鋭い目付きをした矢野が乗っている。良くも悪くも、その瞬間、もっとも研ぎ澄まされた人馬だった。
阪神競馬場にこだまする実況さえ聞こえず、セレナが一言だけ、ただ呟いた。
「最後に入るのは十五番スイートアポロン。全馬ゲートの中」
「……負けない」
ただ、それだけ。
「さあ、係員離れまして――」
――スタートしました!
ガシャッ、と大きな音がする。そしてそれと同時に、ゲートが開く。
カノンセレナーデはまず、ゲートを出た途端にいい出し方を決めた。
「さあ最初は、おっとダッシュを決めた八番カノンセレナーデ! これは最初からハナを奪うのでしょうか!」
セレナの脚質は先行や逃げである。そのため、矢野もそのままハナに立つような進路を選択した。
そこに食らいつくようにして先手を狙ってきたのは、十一番アイシーナと六番バブルトレイルの二頭だった。三頭、脚質は同じである。
だが、二頭とも届かない。特にバブルトレイルがカノンセレナーデを追うが、結局そのうちに騎手がスピードを緩めた。ここでバテたら本末転倒。後に差し、取り返す判断だった。
「さあ序盤最初のコーナーを終えたところ。先頭はカノンセレナーデ、完全にハナを取りきりました! 後ろとは二から三馬身ほど差をつけています。二番手は内にバブルトレイル、三番手その外にアイシーナ。そのすぐ後ろにつけて四番手エイングエイと続きます」
先団はカノンセレナーデが一頭抜きん出て、レースを仕切っていた。その後もあっという間に馬身差を開き続ける。
バブルトレイルやアイシーナ等の先行勢もそれについていくことができず、カノンセレナーデはもはや一人旅をしていた。
バブルトレイルの鞍上が、矢野がどんどんと小さくなっていくのを見て、わずかに汗を垂らした。
そして実況が全馬の名前を一周し言い終わった頃には、カノンセレナーデと矢野一は五、六馬身程度を開かせていた。まだ直線にすら辿り着いておらず、三、四コーナーの中である。しかし、少し終わりかけに近づいている。
「さあ先頭、まだカノンセレナーデだ、すごい逃げだ! 後続勢には六馬身以上の差! 二番手バブルトレイル、善戦バブルトレイル! 外からも一番サインハートがぐんぐんと上がってきているが、カノンセレナーデ突き放し続けている!」
実況の声がどんどんと大きくなる。競馬場内の空気も変わる。序盤から中盤にかけての張り詰めた空気をほどくように、誰かの声が聞こえ始める。誰かは、叫びを上げる頃合いだ。
全員の心臓が高鳴り始める。そして熱は、レースの進みと共に、高く熱く、強く、上昇し続ける。
そしてそれは、コーナーを越えて開放される。
「さあ、最終コーナー回って直線――!」
――先頭はカノンセレナーデ!




