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第十話「天才少女、現る」

「前半千メートルの通過は五十八・九のタイムが出ました! これは速い! ハイペースの競馬を仕掛けてきましたカノンセレナーデ! さあ外の方からすうっと脚を上げていくのは一番サインハート、それに続く七番オチェアーノバストも追い上げてくるが、牝馬一頭見事に独走! さあ、最終コーナー回って直線! 先頭はカノンセレナーデ!」

 誰もが前を見据えている。あの栗色の馬体を抜かせ。十数人といるジョッキー達が、直線に入り一斉に手綱を動かす。あるいは鞭を入れる。

 直線のコーナーを回っても、カノンセレナーデは人馬で旅をしていた。

 誰よりも速いその四本の脚で、まるで少女が空をひたすら追いかけるようにして、ただ走っていた。

 距離が縮まらない。全ての人馬が全力を込めて加速している。一番近づいたのは、後ろから差しで迫ってくる二番のシュイコトダマだった。カノンセレナーデを除いた全頭を率いていたバブルトレイルは、もうバテている。彼は後ろに下がってしまい、代わりにシュイコトダマと七番オチェアーノバストが躍り出た。

 それでも尚、どうしてもどうしても、いくら激しく追っても――あの少女には、届かなかった。

「急坂を超えていくが、さあもう完全に、一頭抜け出しているカノンセレナーデ! 難なく坂を登り終えた! 別次元だ! 後続勢追いすがっている、シュイコトダマとオチェアーノバストが来るが、ものともしていないぞカノンセレナーデ!」

 二メートル程度ある坂も、カノンセレナーデはなんのそので駆け抜けていく。他馬はそこでキレを失ったり、減速していた。シュイコトダマはペースを落とし、激走のオチェアーノバストも忍耐力で走っているような状態だ。

 前と後続の馬身差は、まだ余るほど開いている。少なくとも四馬身の差はあろうか。

 場内はとっくに、歓声と叫声で溢れかえっている。熱は最高潮に達していた。ある者は自分の馬券を握りしめ、ある者は既に自分の馬券を床に落とし踏みつけ、ある者は瞬き一つもせず、頭に血管まで浮かべながらレースの行方を眺めている。

 誰もがこう思った。

 あの少女に、どうやったって――届かないじゃないか。

「カノンセレナーデ先頭! これは強い!」

――もう二百メートル、いや百メートルを切った地点。それでもゴール前だが、矢野一はここで笑みを浮かべた。

 矢野はこのレースで、一回も鞭を使っていない。いわゆるノーステッキである。

「……ありがとう、セレナ」

 激しい風の音が、矢野一とカノンセレナーデの耳をつんざいた。

 その音は、勝利の祝福の演出にすぎない。

「独走! 独走カノンセレナーデ! 二番手オチェアーノバスト! だが一番手カノンセレナーデ! カノンセレナーデ――!」

――カノンセレナーデ、ゴールイン!


***


 大歓声が、阪神を埋め尽くした。鞍上の矢野は、静かに空を見た。今は風の音も消え去り、はっきりと聞こえるのは自分の呼吸音と心臓の音、馬具のかちゃかちゃとした金属の音、そしてセレナから聞こえる蹄や芝の踏まれる音だった。

 遠くの観客席から聞こえるのは、余るほどの大声達。それなのに、矢野の世界はやけに静かだった。

「セレナ、ありがとう」

 感謝の言葉と共に、セレナの頭にそっと手をやった。

 セレナの方も、一緒に空に目をやっていた。広がるのは真っ青な晴天である。まるで自分達の門出を祝われているみたいな気分になって、セレナは自分が笑ったような気がした。馬の姿では、明確には笑えないはずなのに。

「私、勝っちゃったんだ」

 最初は違和感のあったはずの四本脚が、もう彼女の中でいやに馴染んでいた。

「ありがとう、一(はじめ)」

 馬も騎手も一方通行な、感謝の掛け合い。絶対に伝わらないはず言葉も、今なら少し、互いに伝わっている気がした。


***


 天才少女。その四字熟語の見出しで、カノンセレナーデは競馬の情報誌やメディアで大きく取り上げられた。

「カノンセレナーデ、タイム一分三十五秒六の好タイム記録! 天才少女爆誕か!」

 騎手の矢野は若干自慢げにそれを見た。調教師の村松は誇らしげにそれを見た。厩務員の古川は自分の子どもが活躍したときと同じような、穏やかで優しげな表情を浮かべた。

 馬主の安元は倒れかけていた。

 テレビやラジオで新馬戦を見ていた生産牧場のスタッフ達のほとんどは、病院に運ばれかけていた。

「う、うちの花ちゃんがあっという間にこんなに大きく……」

「やばい、ど、どうしよう、旗とか作りますか?」

 もはやめちゃくちゃな状態になった小宮牧場なのであった。

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