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第十一話「なんだこいつ」

 新馬戦をあっさり快勝したカノンセレナーデは、その後どうするか安元と村松あたりが軽く話し合った結果、一旦放牧に出されることとなった。放牧は外厩施設、と呼ばれるものを使うことにした。

 レースを使ったばかりの馬をリフレッシュさせつつ、同時に負荷もかける。そうして次走に向けて少しでもいい状態を作り上げるのが、この外厩の役目だ。

「次走はおそらく夏……八月あたりのレースを使いますので、それまでは外厩で放牧に」

 村松が安元に対してそう説明すると、安元は申し訳なさそうに眉をひそめつつも、軽く首を傾げるような仕草をした。

「すみません、外厩は分かるんですが、セレナは具体的にどの施設に行くんでしょうか」

 安元は知ろうとしている姿勢があるとは言え、まだこの世界のことに関しては素人である。村松はそんな彼を見て、なんだか微笑ましくなったのか、気付けばにっこりと口角を上げていた。

「安元さんの方からなにか指定がないのでしたら、セレナには和良川(わらがわ)優駿ファームで休んでもらいます。僕がよく使わせてもらってるところですよ」

 和良川優駿ファーム、通称和良川は村松厩舎がよく利用する民間外厩である。ここでも大手のサウスファーム滋賀と比べたら、規模自体はそれほど大きなものではない。

 だが、和良川の魅力というのは丁寧な管理と、経営者もとい経営会社の人のよさにある。

 一部の関係者や厩舎とはどこまでもいい関係を築くので、そうやって多くの馬をあてがわれている。なんだかんだ、ちょうどよく温かくもある施設なのだ。

 安元は特に外厩施設を指定しなかったので、セレナはそんな和良川優駿ファームで休息を取ることとなったのだった。


***


 だが、和良川に移動するまでは数日待たなければいけない。村松厩舎でそのわずかな数日が過ぎていく間、一方のカノンセレナーデはとあるやつと出会っていた。

 それはある早朝のこと。セレナが馬房の中でぼうっとしていたときに、そいつは突然現れた。

「はいはい、暴れない暴れない、いい子いい子……」

 誰かの声が聞こえたので、セレナはたちまち視線をそちらの方に移し、同時に耳を前方に向けた。注意や警戒のサインだ。

 段々と近づくその声の持ち主は、村松厩舎にいる厩務員の一人だった。セレナも、一回や二回程度は顔を見たことがある男。彼が一頭の馬をどうにかなだめながら、自分の方にやってきたのだ。

「はいはいはい、君の馬房はここね」

 セレナの左隣。がしゃがしゃと騒がしい、馬房と馬具の音が響き渡る。彼女は人間にこそ見えないが、なんとも苦い顔を浮かべた。

 そして、そんなセレナの耳に届いたのは――。

「ああもう乱暴はよしてくれ、この馬具が窮屈なだけなんだよ、少し緩めてくれればいいのさ、なあ、ちょっと!」

 ほんの少し芝居がかった口調と、それを紡ぐ少年と青年の狭間のような声色。言い方は例えるなら舞台の中の王子様やスマートな怪盗のそれだが、セレナが左の方に目を向けると、そんなかっこよさは微塵もない。

 焦げ茶色の頭を左右にぶんぶんと振っては、窮屈なだけでこうなっているとは思えないほど暴れ散らかしている。

 困難な一頭の牡馬を制御しようと、厩務員もなんとか手綱から手を離さないように堪えていた。そしてどうにかして馬房の中に入れ、速やかに馬具を外して瞬く間に馬房から出ていった。こんな暴れ馬と一瞬でも同じ場所にはいたくないのだろう。

「はあ、これでやっと楽だよ」

 最初から暴れて無駄に体力を使ったのは自分なのに、疲れたとでも言いたげに牡馬はため息を吐いていた。

 カノンセレナーデはこの姿になって初めて、呆れの感情を覚えた。

「あの、あなた……」

 だが、こいつが誰なのか気になりはする。セレナは気付けば、自分の方から彼に声をかけていた。

「ん、あなたは誰かな? お嬢様?」

「私は、カノンセレナーデ。セレナでいいわ。あなたは?」

 牡馬はそれから、ふっと小さく微笑を浮かべたように思える。

 少なくとも、セレナから見える範囲では彼は色男にも見えた。前世の感覚を引っ張り出してきて、人間の審美眼で男を見ても、ずいぶんとハンサムな馬だったのだ。

「僕はロマンティーノ。ロマン、って呼んでおくれ。よろしく、セレナ」

 先ほどまで厩務員の手を焼かせていたとは思えない、王子様のような牡馬だった。

 艶のある鹿毛の馬体。額には小さな稲妻のような直線の流星がはっきりと描かれている。牡馬、ロマンティーノ。

 セレナはロマンの様子を見て、これまでに全く出会ったことのない厄介なやつに会ってしまった人特有の、呆れと優しさとよく分からないなにかが混ざり合ったため息を軽く漏らしたのだった。

「なんなの、こいつ?」

「なにか言ったかい?」

「いいや、なにも」

 左隣から、ロマンの話し声がずっと聞こえてきた。

「ねえセレナ。僕、そろそろ走るらしいんだよ。まだちゃんと走ったことがないんだ。デビューって言ってたな。セレナはもうデビュー、してるかい?」

「してる!」

 うるさいの意を込めた投げやりな大声を、セレナは馬になって初めて出した。

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