第十二話「セレナの考え事」
ロマンティーノとカノンセレナーデは、なんだかんだそれから数日間を共にした。常に馬房は隣同士で、セレナはロマンが調教に連れて行かれてやいのやいの言っているところをただ眺める生活をするようになった。
しかしながら、二頭は特別仲良くなったわけではない。それどころか、ロマンが馬房の壁を毎時間のように蹴るのでセレナは内心腹が立つ、とも考えていた。暴れるわ壁を蹴ってくるわ、その音もうるさいわ。
馬になり音に敏感になったセレナにとって、それは些細だが振り積もれば巨大なストレス源になっていた。
だが、一辺倒にロマンが嫌いというわけでもなさそうだった。
セレナはこの何日か、ロマンの厩務員らの様子を見て気付いたことがある。
「ロマン、もしかしてあなた、お坊っちゃんなんじゃないの?」
「なにがだい?」
――セレナの予想は的中している。ロマンティーノ。彼は折り紙付きの超良血馬であり、超高級なクラブ馬なのだ。
ロマンティーノの母はロマンフジンといい、彼女はこれまでに七頭の子を生んでいる。その中には、オークスで二着と健闘し五歳ラストランの天皇賞・秋で悲願のGⅠ制覇を叶えた名牝、リリチェスキーがいるのだ。
リリチェスキーはロマンフジンの二番仔なのだが、彼女が三歳で活躍し、馬産のスケジュールが噛み合った五番仔以降は、今のところ全ての産駒がリリチェスキーと同じ配合で生まれている。
そう、この五番仔こそがロマンティーノなのだ。リリチェスキーの全弟であり、今もっともデビューが待ち望まれている二歳馬の一頭。馬主はこの界隈の大物である一口クラブ、メープルウッドクラブ。これまでに数々のGⅠ馬を輩出し、果ては三冠馬までもを誕生させた、最強とも名高い一口クラブだ。
そこに絶頂期を迎えている村松厩舎という、強いことがほぼ確約されている布陣の中心に、ロマンティーノがいる。
なのでロマンはどれだけ暴れようとも、愛でられる。いや、人間が彼を愛でなければならないのだ。それほどに、彼は確かにお坊っちゃんだった。そして、セレナはそれをなんとなく察知していた。
だが、馬であるロマンはそれを知らない。自分が他馬よりもずっとずっと手塩にかけられ愛されていること、大切にされていることなど、知る由もなかった。ロマンティーノには、記憶している前世などないのだ。そして、特別でない馬がいるということも、知らないのだ。
「うーん、まぁ、分からないならそれでいいんだけど……」
セレナもそういえばそうか、と話していて気付いたので、それ以上なにを言うこともなかった。
未明。時期は既に六月の後半で、梅雨の終わりかけに差し掛かっている。あと数日すれば初夏が始まり、そして夏本番に入ってゆくだろう。ここ数年の夏は運よく冷夏続きだったが、今年はまた記録的な猛暑になるようだ。
人間達はそれに怯えているが、馬は天気予報など見ないので、そんなことは知らなかった。
梅雨特有のペトリコールのような、蒸れた衣服のような、おかしな臭いがこの厩舎内にもなんとなしに広がっていた。
なにをするでもなく、その雨らしい臭いと馬房内に敷き詰められた藁の牧歌的な匂いに鼻腔をくすぐられながら、セレナはぼんやりと考え事ばかりをしていた。
もう、この体になって二年以上が経っている。あのとき指を絡めかけたダイアモンドサイドは――一体、どこにいるのだろう。
他にも気になることがある。そもそも、自分を殺したあの通り魔は誰だったのか。見覚えがあるかないかは分からない。あの男はパーカーのフードを深く被っていて、顔が見えなかった。
あいつに刺されて、自分は馬に転生した。そしてあの天国のような場所でダイアモンドサイドに出会い、転生を頼まれ、そして言われた通り生まれ変わり、こうして愛されている。
だが、次の人生で愛されているからといって、誰が他殺に納得できるだろうか。セレナは当歳のときからずっと、ずっとどこかこの生涯に納得をしきれなかった。
その理由は、殺されたからとかそれだけではなかった。
ずっと、離人しているのだ。自分が自分でないかのような、そして意識や記憶が遠のいているかのような、ふわふわとした気持ちよくも気持ち悪くもある感覚。
初めて矢野の顔を見たとき、なぜ牝馬はすぐに矢野のことを思い出せなかったのか。前世で応援していた、スーパージョッキーだったというのに。
それもこれも、この馬の体になってから常にまとわりついている離人感や、宙に浮くような奇妙な体感のせいだったのだ。
前世の記憶が薄らいでいて、自分が自分を遠くから見ている。魂が二つあるような感覚だ。いや、もしかしたら本当にそうなのかもしれない。
自分は、本当にリカで、花ちゃんで、カノンセレナーデなのだろうか。
まだ朝日の昇らない空も見えない、狭い馬房の中。ロマンティーノはこんなときに限って壁も蹴らず、静かにしている。セレナの頭の中には、晴れないもやがかかるばかりだった。
「セレナ、行こうか」
そのときに、ゆっくりとした仕草で彼女の目の前に登場した古川厩務員が、馬房の鍵を開け、セレナの黄金色に輝くたてがみ付近をそっと撫でた。
「もう放牧だよ。まぁいうても八月になったらまたここ来てもらうけどな。あっちでも元気にしててな」
古川の言葉が、セレナに一つ一つ届いていった。
「古川さん……」
馬具を装着されながら、カノンセレナーデは誰にも見えない笑みを、そっと、確かに浮かべた。
――カノンセレナーデは、六月の下旬に和良川優駿ファームへと旅立った。
***
――都内。とある女が、キッチンで料理を作っている。それはただの料理ではなくて、栄養にこだわった子ども用の混ぜご飯だった。
「はい、ご飯の時間よ」
キッチンから食事を運んできた女が、子どものいるリビングの方へとやってくる。リビングの左側にはベランダがあって、女がさっき干した洗濯物がぽかぽかと陽気な日差しに照らされている。
「ご飯……って、なに、テレビ見てるの?」
女がテーブルにご飯のプレートを置いてから、子どもに近づいた。子どもはテレビを見つめていた。
「まんま、みて、うま!」
子どもは、テレビの先に映るものを指差していた。
「お馬さん、見てるの? 綺麗ね」
母親である女もそれを見た。テレビに映っているのは、馬が走っている姿だった。
「お馬さん、好き?」
「うん!」
子どもは明るく答えた。普段は落ち着いている子どもなのに。
「あらまあ、そんなに好きなのね。お馬さん、乗ってみたい?」
「のる! うま、のる!」
あふれんばかりの笑みを浮かべている我が子に、母親はにっこりと微笑んだ。
「じゃあ、もう少し大きくなったらお馬さんに会いに行こうね。でもその前に、ご飯を食べなきゃでしょ。ほら、今日は美味しいしゃけのおにぎりよ。おいで――」
――大亜ちゃん。




