第十三話「冷えたラーメンは美味くない」
「セレナの次走についてなんですが」
安元の右隣に座っている村松は、俯いてある物を手で取りつつ話を始めようとした。
「提案が何個かありまして……」
「あの、村松さん」
「夏に使うと前に言ったと思うんですが、その通りに……」
「あの、村松さん、聞いてください」
安元はそわそわとしていた。村松が彼の方を見る。
「なんですか?」
居心地の悪そうにしている安元が、うーんと低い声で軽く唸った後に口を開いた。
「……なんでラーメン屋なんです?」
「ん?」
「なんでセレナの次走の話し合いがトレセン内のラーメン屋なんですか!」
――ここは栗東トレセン内にあるラーメン店、将馬。ここ数年でできたばかりの店だが、確かな美味さがあるとトレセン内に住む人達からは評判だ。村松も、ここに足繁く通っていた。
そのラーメン屋に、安元も連れて行かれた。村松に児相の話し合いをしようと言われ、ついて行ったらこれだ。
「まあまあ、いいじゃないですか。安元さんもなんか食べましょうよ。まずは塩ラーメンがおすすめですよ!」
村松が箸を手に取り、手を合わせてから湯気の立つ味噌ラーメンをすすった。安元は食べませんよ、と言いつつ出されたお冷を飲んだ。無味無臭の水が喉をすっきりと通っていく。
「はあ。なんで滋賀まで来てこんなガヤガヤしたお店で……。厩舎に会議室とかないんですか?」
「あるにはありますけど、うちはあんまり使わないんですよねえ」
もやしとコーンを咀嚼している村松を横目で見て、安元は小さくため息を漏らした。こういうところではやけに生真面目な人間だ。
「まあいいとして。セレナの次走はどうなるんですか?」
安元から話題を持ち出した。村松は口の中に入っているものを全て飲み込んでから、小さく頷いた。
「そう、次走。僕からいくつか提案させてもらいたいんですよ。安元さんに」
一旦箸を置いて腕を組む村松の目つきは、さっきまでのラーメンをすすって満足している中年男性のそれとはまるきり変わっていた。飛ぶ鳥を落とす勢いのスター調教師、村松晃盛。彼の目だった。安元も姿勢を正した。やけに高い丸椅子の上で。
「まず、夏に使うって言ったじゃないですか。あれは変わってないです。今から考えると、八月中に一つレースを使うってのを考えてます」
「八月。放牧から一ヶ月経ったぐらいですよね。なぜ八月なんですか、秋でもいいのでは?」
「はい。そこについてなんですが……」
村松が一瞬黙って、顔を下にやる。まるで迷いがあるかのような仕草だった。
「次も勝ったら、セレナを――阪神ジュベナイルフィリーズに送ります」
――阪神ジュベナイルフィリーズ、通称阪神JF、またはジュベナイル。中央競馬でも数少ない二歳限定のGⅠであり、さらに牝馬限定戦。牝馬のみの二歳限定GⅠは、日本競馬ではここしかない。デビューしたての有力牝馬がまず最初に目指したい、第一の関門だ。
「待ってください、確定なんですか? それに最初の目標はそっちじゃなく桜花賞って……」
「あのデビュー戦を見て、話が変わりました」
安元の反論を遮るように、村松が割り込んだ。味噌ラーメンから立つ湯気が段々なくなっていっている。スープの上には白い脂が浮きつつあった。
「新馬戦の時点であそこまで強ければ、話は別です。しかもノーステッキ。そして……そもそも、私達は全力で調教してなかったんです、あの時点では」
「調教に力を入れてなかった、と?」
「はい。率直に言うと力を入れず流してました。矢野さんにも、調教で追わないでくれと指示を。しかしその状態であの圧勝劇。となれば、桜花賞の前にまずいけるレースが山ほどある。その筆頭が、ジュベナイルです」
村松のする話を、安元はお冷のコップ片手に聞いていた。急激に温まったコップから落ちていく小さな水滴が、彼の片手に落ちていく。安元の左手は濡れきっていた。
「ジュベナイルは桜花賞と同じ舞台。どちらを目標に据えようと、時期以外に変わりはほとんどありません」
その時期が大事なんじゃないか、と安元の脳裏に一瞬浮かんだが、それを彼が口にすることはなかった。相手はプロの調教師なんだから、きっと意図があるはずだ、という考えが一番上に出てきた。
「……村松さんのところには、桜花賞馬もいるんですよね。その子のときはどうしたんですか」
「あの子も阪神JFを勝ちました」
すっきりと、流すようにそう言われたので安元はなにも言えなくなった。彼はもう、ポットを持ってお冷のコップに水を入れて、またそれを飲み干すことしかできなかった。
「そうですか。その子を調教した村松さんから見て、セレナはそれができる器だ、と」
「はい。もちろんその子とセレナは違う。でも、素質は十二分、いや確実にある。僕はそう信じてます」
村松が頼んだ味噌ラーメンも、もうスープの表面に脂が浮かびっぱなしだった。麺も伸びているかもしれない。少なくとも、頼みたての状態ではなくなっていた。
「……じゃあ、分かりました。阪神JFですね。正直、僕は素人なので、セレナがGⅠに行くとなると嬉しいです。……頼みました」
コップの雫でびちゃびちゃの左手を気にもせず、安元は右隣の村松の方を力強く見つめた。村松もそれに、はい、と返したのだった。
「それで、そのために夏に使うんですか?」
「そうです。近年の阪神JF勝ち馬は、少なくとも十一月までに重賞を一回勝ち、それから阪神JFに向かう馬が多い。特に、レース名に『2歳ステークス』とつくところか、またはアルテミスステークスが多いですね」
「なるほど。どちらを選ぶんですか?」
「アルテミスは東京開催なので、輸送には時間がかかる。今はまだ、もっも近い開催場所のレースでセレナの様子を見たいです。なので、今回は2歳ステークス系を優先します」
もはやお冷もラーメンも、この二人の間には存在しないものとなっていた。最初はラーメン屋がどうこうとうっすらむくれていた安元も、今では健全な話し合いに夢中になっていた。なおこの二人が話している間に、二人の客が来店してラーメンを食べ終わり、退店している。
「だから夏なんですね。で、どれなんですか?」
「はい。僕としては、新潟2歳ステークスを使いたいと思ってます。阪神とはまた違う左回りのコースですが、両利きのセレナにとっては問題ないでしょう。問題は長い直線とあの逃げ切りの脚質ですが……セレナはあの新馬戦で直線に入ってから、急坂にびくともしなかった。スピードを落とさず、それどころか加速までしてました。つまり、ラストスパートでの粘りもある子だと思います。なので、新潟2歳を使う価値はあると思うんです」
安元は途中からよく分かっていなかったが、とりあえず目の前の彼の言わんとしていることはなんとなくで掴めた。
「勝率はある、と?」
「はい、あります」
プロがこう言うのなら、自分は任せて大丈夫だろう。相手は実際に別の馬で阪神JFも桜花賞も勝たせているのだから。そんなどこか安易にも思える考えで、安元は首を縦に振った。
「分かりました。出すなら協力はします。よろしくお願いします」
「決定ですね」
村松が右手を安元に向かって差し出した。ああ、と言って安元はびちゃびちゃの左手を咄嗟に出してしまった。彼が左利き故の事故だ。
「うわあ、なんでそんな濡れてるんですか!」
「え! ああすみません、コップが……」
「あの、お客さん。早く食べてくれませんか? レースが大事なのは分かるんすけど」
話の終わったタイミングで途端に店員が顔を出してきたので、村松は急いでラーメンを食べたという。冷めたラーメンは美味くなかった。
***
「人間の食べ物が恋しいなあ。ラーメンとか」
一方その頃、和良川で蹄を交換している途中のセレナはふとしてそんなことを言ったのだった。




