第十四話「牝馬は夏に強いから」
カノンセレナーデの次走は、正式に新潟2歳ステークスと決定された。この情報は瞬間的に競馬メディア等や関係者、ファンの各所で流され、どこまでも話が広まっていった。ただ、全員が待ち遠しくしていたのだ。あの新馬戦勝ち馬、カノンセレナーデが重賞を走る瞬間を。
そして調整が重ねられ、セレナは八月のはじめ頃にはもう栗東トレセンへと戻ることとなった。外厩での放牧期間は、本当にわずか一ヶ月程度と相成った。
しかし、セレナ自身は至って元気だ。和良川優駿ファームの周回コースを伸び伸びと駆け回り、他馬を圧倒している。あいも変わらずそれで他の馬が萎縮してしまう可能性があるため、併走しているのは重賞クラスの馬なのだが。
強い馬と戦うことに慣れている重賞馬と走らせるなら大丈夫、という和良川側の判断だった。
だが、それも少しまずかった。
「おい見ろ。セレナ。あれラスト何秒だよ」
「今タイム出ました。えーっと、ラスト一ハロンは十六・六です」
軽い仕上げで、終盤にほんの少し伸ばすだけの簡単な仕込み。それで十六・六の数字は、ひとことで言ってしまえば普通にいい方、だ。和良川の人達も、あのたった四本の細い脚に見惚れつつあった。
あの脚にどんな未来が眠っているのか、その眠りはいつ目覚めるのか。誰もが、それを見たくて仕方がないといったような様子だった。
当然、まだ分からないだろとなんだかんだと文句を言う人達もいるわけなのだが、この世界は結局、今はまだカノンセレナーデを中心に回りつつもあるのだった。
***
――時が経ち、もう季節は夏の盛ってくる頃。八月がやってきた。過去数年はたまたま冷夏が続いていたのだが、今年は猛暑が見込まれるそうだ。日によっては最高気温は三十七度。外に一歩たりとも出られない、異常気象にも近かった。
ここ数年は偶然が積み重なり涼しかったので、誰もがいきなりまた暑くなりくたくたとしていた。もしかしたらもう猛暑なんて来ないのかも、と誰もが密かに思っていた頃に来た、印象のよくない夏だった。
それは、人間でない生き物にとっても同じことだった。
「なんか、最近暑いわね。どうしたのかしら……」
外厩施設でセレナのトレーニングが行われる時間は、もっとも太陽の照射が激しい正午あたりの時間を避けつつも、結局太陽は出てる昼下がり頃に行われることが多い。
この季節というだけで、この季節に空の上で太陽が活動しているというだけで、誰にとっても暑いものは暑かった。最悪の暑さではないが、だからいいという話でもない。
とりわけカノンセレナーデは、サラブレッドとして生まれた年の夏から冷夏しか味わってこなかったので、こんなにも暑い夏というものを体験したことがなかったのだ。人間の姿の前世でならあるのだが、もはや今のセレナに人間時代の話は通用しない。
感覚が過敏で体も弱い、医療も人間と比べたら当然発達していないサラブレッドにとって、厳しい暑さとは緊急事態と言ってもいいものなのである。
カノンセレナーデは、その体感したことのない気温に嘆き喘いでいた。
「これじゃあ走ろうにも、あんまり気持ちよく走れないわ。汗もすごいし、息が上がりそう……なんとか、耐えてみせるけど」
セレナは猛然と己に襲いかかってくるこの酷暑に、内心では疲労している。だが、外厩施設の人達はそれに気付かなかった。セレナ本人が、気付かれないようにしたのだ。
なぜかというのは、きっとセレナにも上手く説明できない。迷惑をかけたくないから、というだけではなかった。もっと心の奥底を汚く這いずり回っている、なにかの感情が理由かもしれなかった。
だが、その我慢が吉と出るか凶と出るか。誰も知らない。誰もその我慢を悟ることができなかったのだから。
和良川の人達にも――村松晃盛の目をもってしても。
「セレナ、おかえり。元気そうでなにより!」
「うん。普通に調子よさそうだね。ちょっと和良川側のトレーニング浅かったぐらいかな。でも季節的にこれでいっか。矢野さんはどう思います?」
別馬への騎乗依頼で村松厩舎に足を運んでいた矢野が、村松に声をかけられそちらの方を向いた。すぐそこにはカノンセレナーデがいる。前に新馬戦を勝った、新たな相棒になるかもしれない女。
彼女の全てをくまなく、なにも逃さないように見つめた。それから矢野は、その常に重そうな口を開いた。
「……まあいいと思いますよ。でも、印象よりは牝馬らしくないなって。最近は、牝馬関係ない話でもありますが」
その言葉が、なにを意味しているのか。その場にいた全員が、理解できなかった。
「矢野さん、それはどういう意味なんですか?」
「いや、こちらの話ですよ」
そう一言だけ残して立ち去っていく姿を、村松と古川厩務員は黙って見つめることしかできなかった。




