第十五話「発走前々夜」
今エピソードは一度削除の後、改稿が行われたものとなっております。輸送やレースに関するタイムスケジュールを、実際の競馬に沿う自然なものへと修正、改稿いたしました。ご了承ください。
八月が始まって何日かした頃、二歳牝馬カノンセレナーデは栗東トレセン内の村松厩舎へと再び入厩した。これからは初重賞となる新潟2歳ステークスの舞台に向け、トレセン内で厳しい鍛錬を積んでいくこととなる。
「やあセレナ、久しぶりだね。僕のこと覚えてる?」
――仲間と言うにはあまりにやかましい、仲間とともに。
「ロマン、あなたまだいたの?」
セレナが放牧に出されたのは、六月の下旬。ロマンティーノはそのときにもいた。そして戻ってきた今は八月初旬。また同じ彼がいることに、セレナはなんとなく辟易としていた。離れたいわけではないが、また壁を蹴られるのかと思うとお世辞にもいいとは言えない気持ちになってきたのだった。
「ずっといたわけじゃないよ。一回試験といったやつを受けて、その後に一回よく分からない施設に行ったんだ。それで数日前に戻ってきたんだよ」
彼の言っているよく分からない施設というのは、おそらく外厩のことなのだろう。セレナは前世で競馬を見ていた人間なので、自分がどこにいてなにをしている最中なのかというのもざっくり理解可能だ。
しかし、ロマンは前世の記憶など持たない純粋な競走馬である。自分がなにをさせられているのか、どこに連れて行かれている途中なのか。そういったことは、全く知る由もない。
そして、それをセレナが教えてやる義理も特にはなかった。
「そう。じゃあまた一緒なだけ?」
「そういうことになるね」
はあ、と小さなため息が吐かれた。人間にとってはただの吐息にしか聞こえない程度のものである。本当はもっと大きく吐いてやりたいところだったが、それはセレナも我慢した。
***
セレナは別に、ロマンのことが嫌いなわけではない。鬱陶しいときも非常に多いが、同い年の変わった牡馬、という印象で見ている。ロマン側からも、セレナは綺麗なお嬢様、というイメージだった。自分がうんざりされているとは夢にも思っていなかったのだが。
セレナとロマン。この二頭は調教で併せることもあり、それぞれまだ走るときの力量は同程度なので、互いに燃えはじめて結果的に毎度いい調教になる。なので最近は、いつでももっぱら一緒だった。
「今、ロマンの調教終わらせてきました。かなりいいタイムです。一緒にやったセレナの方も」
「ロマンはもう翌週に札幌デビュー。セレナはあと二週間で初重賞。どっちもかなり手応えはありそうだね。よし」
ロマンティーノの新馬戦に向けた最終追い切りでも、併せ馬の相手を務めたのはカノンセレナーデだった。二頭揃って好タイムを記録し、準備は万端だった。
二頭とも、今競馬界において最大の注目を集めている馬である。ロマンはあの偉大なる姉を持つ馬として、そしてセレナは初重賞挑戦で期待がかかる、今年の、いや――今後の最強馬として。
どちらも大失敗は許されない。刻一刻と近づくその二つの開催日を、関係者達は心臓の鼓動を高鳴らせて待つのみだった。
***
「――ずいぶん早い時間の出発なんだね、セレナ。行ってらっしゃい。まあ、この僕みたいに鮮やかに勝ってきたまえよ」
時が経ち、ある土曜日の深夜。八月も終わりを迎えようとしている頃、金曜日と土曜日をまたいでいる夜の空は完全に暗く落ちており、まるで黒のベールが掛けられているみたいな夜空だった。そこにはぽつぽつと、白い星が描かれていた。
その下で、栗東のトレセン内には何台かの馬運車が静かに、息を潜めるようにして到着していた。今日や明日、日本各地で走る競走馬を乗せていくためである。
今日その馬運車に乗る競走馬の中には、カノンセレナーデがいた。日曜日、新潟競馬場のメインレースである新潟2歳ステークス。そこに出走するために、セレナは今から栗東トレセンを発つ。
滋賀県にある栗東トレセンから、ローカルの新潟競馬場へは輸送に長い時間がかかる。なので阪神で走った新馬戦のときとは違い、土曜日なりたての深夜のうちにここを出て、土曜日の朝頃に競馬場に到着する、いわゆる前日輸送の形がとられているのだ。
セレナは新潟競馬場に到着してから、主に場内にある出張馬房で丸一日以上を過ごし、それから日曜日の昼下がりにターフを走るのである。
古川に馬具を装着されている最中のそんなセレナを、ロマンは隣の馬房から興味津々といった様子で見つめていた。そして、鼓舞なのかなんなのか分からない軽口を、またもやキザな口調で叩いていた。
「あなたがどう勝ったのか分からないんだけど?」
「えー、前に何回も教えただろ。他の馬が前にたくさんいて、最初は息苦しさもあったんだよ。でも上に乗ってるやつがいきなり鞭で僕を叩いてきて! ひどいよね。でもそれで前にすごく出されて。君がちょうど今つけてるその紐もガシガシされて。びっくりして走っちゃったら、一番先頭に行けたんだよ。そしてそのままゴール!」
「へー、そう。私は違う走り方だから」
新馬戦を差し切って快勝したロマンの話も全く耳に入れず、セレナは黙々と準備を受けていた。古川がスムーズに馬装を施し、あっという間にセレナは馬運車に乗る準備がほぼ整った。
「もう。君ったら話聞いてないだろ。まあいいけど。とにかく頑張ってきなよ。僕、待ってるから」
――待ってるから。最後のその言葉だけ、セレナの心の中にゆっくりと、次第に浸透していった。水が羽毛に落ちていくように、そのセリフは徐々に心の奥の方にまで滑り込んでいった。
汚いものが這いずり回る、奥の方へ。
「……分かってるわよ。それじゃあ、いってきます」
待ってて。そのフレーズは流石に口にできず、カノンセレナーデは満開の星空を上に、栗東のトレーニングセンターを後にした。
新潟2歳ステークスの発走まで、残り約三十八時間。




