第十六話「三人寄ればなんとやら」
今エピソードは一回、些細な改稿を行っています。ご了承ください。
何個もの信号を越え、あるいは高速道路を越え、何キロもの間コンクリートの道を通り、カノンセレナーデは新潟競馬場へと辿り着いた。時刻は午前の九時頃。出発した頃と比べると、見える空は吹き抜ける青天井そのものになっていた。
太陽の白光が、大きな雲の隙間を縫って一帯を照らしていた。夏を主張してくる、良くも悪くも八月らしい晴天だった。
「ああもう、あっつい。馬房を出たときよりずっと暑い!」
セレナは馬運車から出て空の光を浴びた瞬間、そのあまりの暑さに耳を絞りかけた。
少なくとも人間目線では気性のいい馬とされる彼女でも、日本の夏の暑さと高湿度にはにこにこ耐えられるわけもなかったのだ。
ここ日本の夏の特徴として、高温多湿がある。ただ焼けるように暑いだけではなく、全身を気持ち悪く包んでくるようなもやっとした湿度が、これまたセレナを不必要に苛立たせていた。
だが、カノンセレナーデの体にはなんの異常や変化も出なかった。その理由は、痩せ我慢に近しくも遠い、忍びだった。
「こんな時間に着いたってことは、走るのは明日よね。はあ、頑張らなきゃ」
古川厩務員に新潟競馬場内の出張馬房へ案内されながら、セレナは明日に思いを馳せるのだった。
***
「馬房内も暑いし、トレーニングしても暑い。夜も熱帯夜。はあ、こんなので、こんな日が来ちゃったなんて……」
――土曜日の夜は、もうとっくに終わっている。空はまた真っ青に晴れており、太陽も絶好調のご様子。カノンセレナーデにとっては、都合が悪かった。あまりにも悪すぎたのだった。
新潟2歳ステークスまで、発走時刻は既に五時間程度となっている。現在時刻は日曜日の午前十時だ。
今でさえセレナが茹だるほど暑がっているが、まだまだ昼にはなっていない。気温も本調子ではなかった。これから時間が一時間、二時間と経つにつれ、本日の最高気温に近づいていくのだ。
天気予報だと、この日の最高気温はおよそ二十八度近く。三十度は超えないが、それでも相当の夏日だ。真夏日に限りなく近くもある。
そして外は多湿。人でも馬でも、走るには耐久力を要される環境だった。
セレナにその耐久力があるかどうか。答えは、実際にレースを走ってみないと分からない。軽いトレーニングや栗東トレセンの追い切りでは、誰もが心配するような変化はやはり見られなかった。
――誰もでなければ、あったとも言える。
「やっぱりセレナ、牝馬らしくないです」
新潟競馬場内、この日は三鞍に騎乗する矢野一。最初に騎乗するのはそれこそ新潟2歳ステークスからだったので、それまではそこに向けて村松と古川、そして調教助手――梅田侑――と話し合いをしていた。
「追い切りのときも思ったし、昨日も今日も見てて思いましたが。らしくないです」
牝馬らしくない、という矢野の発言に、三人は並んで首を傾げた。
「なにが牝馬らしくないんですか?」
セレナの馬体重は四六〇キロ後半で、大して太っているわけでもない。筋肉がつきすぎているわけでもない。むしろ体重は平均程度にもかかわらずすらっとしていて、牝馬らしい気品にあふれている。体格の話をしているわけではないのは瞭然だったり
しかし、では矢野にとってはセレナのなにが牝馬らしくないんだ。村松は興味深いと顔に書いてある笑い方をし、梅田はまたいつもの一さんの言葉足らずだと困ったように笑い、古川はもう頭を抱えかけていた。
逆八の字の眉をした梅田が、主に一の言葉を紐解いていった。
「一応聞きますけど、体格の話じゃないんですよね?」
「はい。セレナはでかくないです。あれぐらいがいいです」
「じゃあ、矢野さん的にはなにが牝馬らしくないんですかね?」
矢野はうーん、と短く低く喉から唸り、それから視線を少し下に落として口を開いた。
「夏は牝馬、ってよく言いますよね」
全員がそうですね、と相槌を打った。夏は牝馬、というのは昔からある有名な格言だ。理屈の説明は誰もできないのだが、夏は牝馬がよく走る、というのはこの時期になると毎年言われる。
「セレナ、そんな夏強いかなって」
村松と梅田と古川が、それぞれの顔を順番に見合わせた。そして最後に、揃って矢野の方を見た。
矢野一はまさか、セレナが夏に強くないと言っているのか。それはつまり、夏に弱いと言っているのか。そしてそれはさらにつまり、今のカノンセレナーデの調子はよくなさそうですよ、という意味なのか。三人の中で、考えはそこまで広がった。一瞬の連想ゲームだ。
「矢野さん、それはどういう……?」
古川が恐る恐る聞いた、次の瞬間。
「あ、矢野さんすみません! あのー、今日着る勝負服についてちょっと……ちょっと色々あっちゃいまして……お話中すみません、いいですかね?」
他陣営の誰かが、少し遠巻きに矢野に声をかけてきた。困り顔なので、おそらくなにかがあったのだろう。
「あ、はい、今行きます! すみません、ちょっと行ってきていいっすか」
肝心な話を遮られたことにもやもやとしつつも、あちら側でなにかアクシデントが起こっているのなら仕方がない。
村松が行ってらっしゃい、と言ったので、矢野は他陣営の人の方に背を向け、そのまま場を後にした。
数秒だけしん、とした沈黙が落ちた。それを一番最初に壊したのは、古川厩務員だった。
「……ねえあれ、あの、どういう意味だったんでしょう?」
焦るあまり他二人にしがみついてしまいそうな勢いで、古川は慌てふためいていた。梅田がまあまあ、と止めるが彼もまた内心ではかなり揺さぶられていた。
「矢野さんはたまに鋭いからなあ」
「怖いこと言わないでくださいよ村松さん!」
「まあまあ、古川さんは落ち着いて。まだセレナの調子が本当に悪いって決まったわけじゃないですから、ね?」
一人でてんやわんやしている古川と、それを宥める梅田。それを尻目にしてにやついている村松。成人どころかれっきとした中年男性三人が集まった結果、こうなった。
だが、この全員は同じ方向を向いている――カノンセレナーデを、ここで勝利させるために。全ては、馬のために。その願いと思いは強く、宝石のように輝きを放っていた。
が、宝石というのは時として――ひびさえ入れば、なによりも、脆い。




