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第十七話「Soul Shaking」

 新潟2歳ステークスの発走まで、残り時間は二時間をとうに切っている。出走馬達はどうしているのかというと、今は装鞍所にいた。

 名前の通り馬に鞍を付ける役割の場所ではあるのだが、それと同時に、パドックの前に馬体の検査なんかを行う重要な場所だ。

 装鞍所では、出走馬達がずらっと一堂に会していた。軽く区切られたスペースに入り、自分の検査を受けていたり、あるいはその順番を待っている。

 今回のレースの出走馬は十一頭。ゲート割れしているが、この時期の二歳重賞というのはおしなべてそんなものだった。単純に、新馬戦を勝ち上がってここに来る馬も少ないのだ。

 そんな少ない精鋭達は、装鞍所で並びつつ隣の馬を眺めたりしていた。

 カノンセレナーデも、同様だった。

「あなた、隣? よろしく、私はカノンセレナーデっていうの。セレナでいいわ」

 セレナは、自分の左隣にいる一頭の馬に声をかけていた。馬同士にしか分からない独特の雰囲気で、その隣の馬が牝馬だということは既に察知していた。牡馬よりかは話しかけやすい、とセレナは考えていたのだ。実際、彼女は右隣にいる牡馬には喋りかけていない。

 尾花栗毛の彼女に対し、隣の牝馬は最初の数秒間こそ黙りこくっていたが、ふと小さく声を上げた。

「――セレナ、ね」

 鹿毛の淑女の持つ空気は、セレナを一瞬、ぞくりと震わせた。セレナが今までに感じたことのない、強烈であり異様な印象。

 なぜか、この体の中にある魂を、本能的なハートを揺さぶってくる。

「あの、あなたの名前は?」

 内心ではとっくに恐怖を感じていた。だが、セレナは今さら止めることができず、隣の彼女との会話を続けることにした。鹿毛の牝馬は薄ら笑いを浮かべ、それからセレナと目を合わせた。

 凛としていて、相手の心を掴んで離さない目つきが、目の前のカノンセレナーデを貫いた。

「ズットリオン。なんて呼んでもいいけど、リオンだけだと、後々複雑なことになるわよ。セレナ」

 特別低くもない、高くもない。普通に聞けば普通の声。それなのに、聞いていると不安の渦に呑み込まれてしまいそうになる。そしてなにより、なぜか妖艶なのだ。

 ズットリオンのそれは、カノンセレナーデのペースを乱してくる、誘惑の声だった。

 馬体検査の担当がやってきたセレナは、これ以上は踏み込んではならないのかもしれないと、それ以上自分からリオンに話しかけることはなかった。

 しかし、次はリオンの方から声をかけてきたのだから、セレナは心をかき乱されつづける他になかった。

「ねえ、セレナ。あなたすごく綺麗よね。尾花栗毛でしょ。本当に綺麗ね……お金出したいぐらい」

「お、お金出したいぐらい?」

 自分自身でも聞いたことがないぐらい、裏返って素っ頓狂な声がセレナの方から漏れ出た。馬体検査の担当の人間はそんなものを聞いているわけもなく、今はセレナの蹄を確認している。蹄鉄についての検査を、細かいところを見逃さないよう慎重に行っている真っ最中だった。

 それすら気にせず、彼女はずっとリオンの方を向いていた。リオンは既にそっぽを向いている。

「あの、リオンさん。あなたは、その、一体――」

――誰なんですか。

 そこまで言いかけて、最後の質問だけがなかなか口にできなかった。もしこれを訊ねてしまったら。そして、リオンがそれに真正面から答えを返してきたら。

 カノンセレナーデの世界や――魂そのものが、なにかのバランスを崩してしまうような、そんな気がしたのだ。この体の中にある二つの魂が、立ててはいけない音を立てると思った。

 もう既に、その寸前の感触はわずかながらにしているのだから。

「なあに、セレナ。相手に聞きたいことは、言葉にしないと分からないものよ。あたし達、せっかく言葉が通じるんだから。さ、話しましょうよ」

 リオンの絡むような誘いに、セレナは震えた声を絞り出すことしかできなかった。

「あ、あなたは……何者?」

――その刹那、リオンが笑った。口角だけを上げて。人間には見えない、見えていてくれない、微笑みと表現するにはあまりにも恐ろしい表情。

 カノンセレナーデの魂は、もう限界に達しかけていた。怖くて怖くて、レース前なのにもかかわらず心臓が飛び跳ねて、今から体力を消費してしまいそうだ。いや、とっくに消費されているのだろう。

「……知りたいのね? ふふっ、そう。あたしが誰なのか。うーん、そうねえ」

 リオンの見せる不敵な笑みに、まだカノンセレナーデ以外の誰も気付いていない。隣で検査を受けている馬も、この表情を知らない。

 知っているのはセレナだけ、二人は互いの世界に入り込もうとしていたのだった。

「でも……ダメ。まだ教えてあーげない。だってあたしとあなた、きっとどうせまた会うもの。それも、すぐにね」

 どういうことよ、とセレナが言いかけた瞬間。リオンは笑い声交じりで言葉を吐いた。

――新潟2歳ステークス、発走まであと一時間。

「これからずっと、ずうっとよろしくね、セレナ」

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