第十八話「呼吸する伏兵」
第十八話 「呼吸する伏兵」
ズットリオンのあの目つきとセリフが、頭に焼き付いてからというもの離れない。カノンセレナーデは顔を軽く歪ませていたが、それを知る者は一人もいなかった。
セレナ達はそのまま全頭が馬体検査をクリアし、鞍も装着された。そしてこれから、彼彼女らはパドックへと向かう。
新潟2歳ステークスの発走まで、残り四十五分。その瞬間は、ここにいる全員の目前に迫ってきている。
初の重賞制覇という栄光を、誰がその手に握ることとなるのか。人間達は、固唾を呑んでそれを見守るしかないのだ。
走るのは、馬なのだから。
***
「それでは新潟七レース、新潟2歳ステークスのパドックをご紹介します」
公式のネット配信や競馬場内のアナウンスが、淡々とそれを告げる。女性アナウンサーの声を、馬主席にいる安元杏也は脚をがくがくさせながら聞いていた。
「セ、セレナ、セレナァ……」
周りにいる馬主達は、彼の異様な緊張ぶりに昔の自分を思い出しつつ、それとは少し違った空気があるので安元から距離を置いたりしていた。それにも気付かず、安元はカノンセレナーデだけを見つめているのだが。
「――それではまず一番、アッシュル。四七八キロ、プラス十二」
「体が絞れてませんね。前走は体のバランスよかったんですが、太ってしまったのでそのバランスが出るかどうかってところです」
競馬専門紙の予想家が、解説者としてひと言を挟む。それとともに、アナウンサーは小気味よく各馬の情報を読み上げていく。
「二番、サインフェリチタ。四八〇キロ、マイナス二キロ」
「いい仕上がりだと思います。前走のときと比べてトモがしっかり鍛えられていて、成長してると思います」
「三番、オーエンガール。四六九キロ、初出走です」
「少しチャカついた雰囲気ありますね。気性が幼いですしトモも薄いので、まだ成長途中の馬かなって思います」
こんな風にして、内枠から順に各馬の紹介が進む。その間、馬達はパドック内をぐるぐると周回していた。人間達はそれを見て、馬体のよさや今日の調子を確認し馬券を買う。あるいは、好きな馬をただ見ている者もいた。
カノンセレナーデには、とりわけそういう人間が多かった。たくさんの人が、一斉に一頭の牝馬を熱心に見つめている。その穂のような尻尾が揺れてなびくところを、見逃さないように目に入れている。
しかし、セレナはそんな人々の視線にも気付かず、装鞍所でのことや自分の前後にいる馬のことを気にしていた。
「――五番、ズットリオン。四八八キロ、増減なし」
艶めいた鹿毛の馬体が、新潟の強い日光に照らされている。パドックの中では暑熱対策のミストが撒かれていて、それを受けながら尾を左右に小さく揺らしていた。
ズットリオン、今のところは単勝オッズ三・七倍。二番人気となっていた。圧倒的な一番人気カノンセレナーデに次ぐ人気である。
序盤から前のいい位置を取り、最後の直線で逃げ馬を差し切り勝ってみせた圧巻の新馬戦。そのときからよく評価されている、油を塗ったような光る毛艶。それらが人間達に高く買われていた。
今も優雅に体を弾ませて歩きながら、これでもかとその自慢の美しい艶を見せつけている。彼女の馬券を買いたいと思う人が多発してもおかしくはない、最高の仕上がりだった。
「やっぱりこの馬は毛艶が非常にいいですね。全体を見ても今日は調子がよさそうです。新馬戦のときに使った差し脚もよかったですし、今回のレースでも活躍を見せてくれるんじゃないかなと思います」
解説の男も、このときにズットリオンを二着に入れようと決めた。期待の牝馬、ズットリオンだ。
――だが、彼女にも及ばないものがある。
「次に六番、カノンセレナーデ。四六八キロ、増減なし」
その名が呼ばれた瞬間に、競馬場にいる者もスマホ越しにパドック紹介を見ている者も、あるいは馬主席にいる者も、全員がその牝馬を目に入れた。
華やかでつい惹かれる馬体に、流星のないひどく流麗な顔立ち。付け根から垂れ下がっている尻尾は、白と金を混ぜて陽光の下できらきらと光っている。
単勝オッズ、一・四倍。一番人気、二歳牝馬のカノンセレナーデ。いくらズットリオンであろうと、この時点では彼女の人気と期待を越えられなかった。
「仕上がり非常にいいですね。前走から既にそうだったんですが、今日は一段と整ってるように感じます。この馬の活躍は必至レベルですね」
解説者はもはやパドックを見る前から、勝ち馬は彼女だと自分の心の中で決めていた。セレナの単勝馬券も既に五千円買っている。このパドックを見て、さらに増やそうと決定した。
アイドル的人気で買われているのもあるが、このオッズはおおむね実力を評価された結果だった。新馬戦を軽々と逃げ切ったあのカノンセレナーデが、もう一度走るなら――負けるわけがない。
誰もにそう思わせる力が、セレナにはあるのかもしれない。そう思わせるほどの人気ぶりだった。
当の彼女は自分がそんなにも期待されているなど理解しておらず、それよりも後ろの馬の気配を探ることに気を取られていたのだが。
「七番、システマ。四九三キロ、プラス一キロ」
七番のシステマ。新馬戦は最後の直線で追い込んで、アタマ差を掴み取りどうにかして勝利した牡馬だ。単勝オッズは驚異の一〇八・一倍の、九番人気だ。このレースでは、伏兵扱いが妥当である。
そもそも前走である新馬戦の距離が、このレースより四百メートルも長い二千メートル戦であったこと。
そこでアタマ差という小さな数センチでどうにかして勝ち、さらに騎手がその新馬戦の後に「直線の終盤まで全く力が出なくて、危うかった。距離は長い方がいいのかもしれない」とコメントしたこと。
そもそも二歳の牡馬にしては、馬体重が大きいこと。
父がまだ日本で使いはじめて四年目のアメリカ種牡馬であること。
その父の産駒にはダート馬が多く、芝で活躍している子どもがまだ全くいないところ。
システマの人気が薄い理由は、いくらでも探せた。
「システマは……雰囲気非常にいいですね。気合充分といったところです。距離短縮については少し不安要素ですが、でもこの馬のお父さんがマイルで活躍してますので、あまり気になりません」
だが、解説者の意見だけがそれを翻そうとした。彼はカノンセレナーデとズットリオンをワンツーで買い、その次にシステマが来ると考えていたのだ。男が懐に入れている馬券は単勝とワイド、そして三連複。
印刷された数字は五、六、七。
外れるかもしれない。でも同時に、当たればそのオッズは夢の金額を提示する。
天国か地獄か、答えはそのタイミングになってみなければ分からない、それはまさしく、夢の馬券でもあった。
そんな誰かの勝手な夢を、馬達は叶えてくれるか。
パドックを周回するシステマは、息を潜めている。自分の前にいるカノンセレナーデの尾を見つめ、不気味なほど整っている深い呼吸を続けていた。
――黒鹿毛の馬体は、光を照らしはしない。




