第十九話「あるジョッキーの違和感」
新潟2歳ステークスまで、発走時刻はもう約十分。ゲートの開く瞬間は目前に迫っていた。
しかし、パドック後の地下馬道で矢野一は考えていた。カノンセレナーデに跨り、ゆっくりと余裕を持って歩かせながら、なにかを感じ取ろうと圧のある真剣な表情を浮かべるばかりだった。
やはり今日のこの馬の雰囲気は、新馬戦のときと比べてなにかが違うと。決してよくはない、むしろ不調に近い。
「セレナ」
名前を呼んで、右の首筋をぽんぽんと軽く叩いて撫でてみる。セレナは、その愛撫に対しても落ち着いてはいる。少し首を右側に振るだけで、それ以上はなにもない。
目に見える不調が、ほんの少しの発汗しかない。誰も気付いていない。ファンも、馬主も、厩務員も、調教師も、他のジョッキーも、その全てがカノンセレナーデについてなにも気付いていない。
今日のセレナは、ダメかもしれない。そんな思考がよぎったが、矢野は自分の頬を一回だけぺち、と叩いて気を取り直した。
ダメでも勝たせるのが騎手だ。それが僕らの仕事だ。
今日のカノンセレナーデは、僕が勝たせなきゃいけないんだ。
***
本日の新潟は良馬場。だが、先週に雨が降ったので芝の調子はそれほどよくない。コーナー付近や内側の緑は剥がれかけていて、まばらに茶色の土が浮かんでいる。
カノンセレナーデが前回快勝したのは、真緑の良馬場。芝の調子が、以前と今回では全く違う。矢野の中に溜まっている不安要素が、また一つ加点された。
それでも、時間は進む。本馬場に入ってからは返し馬をしなければならない。他の数頭は既に準備を終えて走っている。
「セレナ、行くよ」
一抹の不安を胸に秘めながら、矢野は軽く手綱を動かしてみた。
悪くない動き。だが――やはり、なにかが違う。
新馬戦のときのカノンセレナーデの走りは、もっと心が熱くなれるような感触があった。今のセレナには、それが感じられない。ただの少し早い馬になっているような気がして、矢野はしょうがなかった。
セレナはもっと強くて、感動させられる馬なはずなのに、今日はなにがこんなにセレナをちっぽけに見せているのか。
「……セレナ、ありがとう。緩めよう」
こんな状態なら、返し馬を何分もする必要はない。本番に注ぐと決めたので、矢野は手綱を緩めて彼女の脚も止めさせ、段々と減速させた。
一人と一頭は、ゲート入りの時刻を待つ。祝福か皮肉か、新潟の空は見事な晴天だった。
***
「さあ新潟2歳ステークス、もうそろそろ発走の時刻となりました。十一頭が初重賞制覇に向かって挑んでいきます。断然の一番人気はカノンセレナーデ。単勝オッズは一・三倍です」
場内には男性アナウンサーの爽やかな声と、盛大なファンファーレが鳴り響いた。多様な管楽器の音がこだました。
新潟2歳ステークスが始まる。もう後には引けない。
競馬のゲート入りは馬番が奇数なら先に入り、偶数なら後から入っていく。カノンセレナーデは六番のため、奇数番の馬の枠入りを待ち、その後に自分の枠へと収まることとなる。
奇数の馬番を持つ馬が、それぞれ促されてゲートに収まっていく。セレナの隣は五番と七番。
不気味なシステマ、セレナに次ぐズットリオン。矢野は無意識に、手綱を握る手に力を込める。二頭とも、一筋縄ではいかない相手だ。
システマは低人気だが、矢野の目には彼こそが怪しく映っていた。なにか企んでいるような雰囲気さえしてくる。そしてズットリオンも当然、セレナの最大の敵である。
矢野は眉間にしわを寄せ、指先が白くなるほど拳に力を込め続けた。
「さて、偶数番の馬達がゲートに入っていきます。六番のカノンセレナーデも、そろそろ収まります」
そうこうしているうちに、セレナの枠入りが進み始めた。職員がセレナの尻を軽く押すと、それだけで彼女はゲート内へと進んだ。
――セレナの心臓は、未だ恐ろしさで脈を打っていた。左隣には装鞍所であんな話をしてしまったズットリオンだし、右隣の牡馬もいきなり恐ろしく思えてきた。黒鹿毛の馬体に、なにを考えているのか分からない目。白目が際立っていて、瞳に光がこれっぽっちも宿っていなかった。
二頭の怖い馬に挟まれるわけで、セレナは内心気が気ではなかった。
「怖い、怖い……!」
そのとき、セレナがゲート内で動いた。ゲート試験のときも新馬戦のときもしなかった、あおり。
「おっと六番カノンセレナーデ少しあおってます。これは大丈夫でしょうか?」
まだ十番の馬が渋っているので、発走までは余裕がある。実況もセレナを取り上げ、場内では些細などよめきが広がりつつあった。ネットでも、大丈夫かという投稿がぽつりぽつりとされ始めている。
「セレナ、待って!」
矢野が苦い声を上げながら、なんとか彼女を抑える。手綱を締めて動きを制御するが、気持ちはなかなか落ち着かせられない。
暴れるのを抑えても、恐怖や怒り、興奮なんかが持続していれば意味などないのだ。
「セレナ、なんで……」
どうして、今日のカノンセレナーデはこうなんだ。矢野は既に疲労していて、ゲートの時点で一人と一頭の意思疎通は取れているようで取れていないようなものだった。
「さて大外十一番のマリーステートがゲートに入りまして、カノンセレナーデも落ち着いてきたか。全馬ゲートの中です」
どうにかして動きは落ち着かせたが、どうなることか。場内は気持ちの悪い不安に包まれていた。
新潟2歳ステークスまで、五、四、三、二、一――。
――ゼロ。
「ねえセレナ、あなた転生したでしょ」




