第二十話「さよなら、カノンセレナーデ」
「え?」
完全に、意識を取られた。そして隙を突かれた。カノンセレナーデが隣を向いたそのとき、ガシャンとあの音がした。
「うわあ!」
矢野一が、小さく叫び声を上げた。
「おおっとカノンセレナーデ出遅れ! 後方からのスタートになるか!」
アナウンサーも叫ぶ。場内も観衆のざわめきで満ちていた。
カノンセレナーデがゲートを焦って出たとき、他馬はとっくに先を走っていた。もちろん、ズットリオンも。
「う……リオン!」
あの鹿毛の牝馬の名前を叫び、力任せに金色の穂を揺らしてカノンセレナーデは前へ前へと突き進んでいく。ポジショニングを調整して、馬群の中に入り込んでいった。それは、やりすぎなほどに。
「カノンセレナーデ立て直そうとしているのか、前へと進みハナを狙っていっていますがこれはいいのか!」
矢野一は必死に制御した。彼女は確実に、掛かっていた。やり直そうとせんばかりに、逆に力があふれすぎてしまっている。
どうにかして止まってくれ。汗を流すとともに、矢野一は苦痛に歪んだ表情を浮かべた。
――そのとき、ついにハナに立ったかというカノンセレナーデの横を、一頭の馬が、黒い馬体が、通り過ぎた。
「は?」
カノンセレナーデから、間抜けな声が漏れた。
「さあそして、なんと! なんと逃げているシステマ! カノンセレナーデを抜き単独先頭! 後続とは何馬身も差をつけていってます!」
システマは、追い込みで新馬戦を勝った。だから今回も同じ手を使うはず。そうでしかない。誰もがそう思っていた。むしろ、それ以外の作戦をやるという思考すら人々の頭をよぎらなかった。
彼を馬券の紐にしていた予想家でさえも、それを見た瞬間に目をかっと見開いた。
システマの、大逃げ。この世の誰も、それを予想できなかった。
システマと二番手にいるカノンセレナーデの差は、無慈悲にどんどんと開いていく。
「さあ最初のコーナーを曲がっていきますが、七番システマが逃げる逃げる! 二番手に位置している六番カノンセレナーデとは既に十馬身以上のリード! カノンセレナーデこれは厳しいか! そのすぐ後ろ、三番手には十番チャトランガがいて半馬身開いたところには三番オーエンガール、五番ズットリオンはその内側につけています、現在四番手か!」
豆粒のような大きさのシステマを見て、カノンセレナーデの脚がどんどんと乱れていく。
逃げるはずだった作戦を粉々にされ、もう後続を放そうという気すらなくなってしまった。すぐ後ろにいる十番チャトランガは、カノンセレナーデの尻の近くにまで来ている。距離は目と鼻の先だ。
「セレナ、セレナ……」
矢野一が、どうしていいのか分からなくなった。一昨年のリーディングジョッキーに輝いた男が、なにをどう乗ったらいいのか考えられなくなった。
ただ、そのレースを体験している全員の頭が、真っ白になっていた。
馬主席から見ている安元は、息も忘れていた。テレビ越しにこれを見ている牧場の人達も、なにも言葉を出せなかった。数人は既に、頭を抱えて絶望の顔をしていた。
村松調教師は険しい剣幕を浮かべ、梅田は無言で行く末を見つめている。古川厩務員は、まだ最後の直線にも入っていないのに泣いていた。
新潟競馬場の観客席の方では、馬券が床と空に散っていった。
「さあ長い直線を一頭抜けて三コーナーに入っていき、坂を登っていきます! 高低差約二メートルの坂、一番最初に登っていくのはシステマです! いいや、まだシステマしか登っていません!」
必死に黒鹿毛の馬体を追いかけるカノンセレナーデ。だが、矢野一はそれを止めるか止めないでおくべきか、喉の奥からこみ上げるなにかを必死に押し殺しながら悩み続けていた。
だが、その迷いが命取りとなる。
「さてここで仕掛けてきました四番のクレアプレール! ぐんぐん上がっていきます、あっという間に二番手! 坂へ向かっていきます! 他馬も続々と進んでいきます!」
カノンセレナーデは気付けば、三番手か四番手の位置にいた。そして進路を塞がれ、気付けば内側の、傷んだ馬場の方に追いやられてた。
矢野一の一瞬の迷いのせいで、十一番のマリーステートに前を塞がれたのだ。斜行にはならない。いたって普通の、競馬の作戦だった。
そして横には、あのズットリオンがいる。
「セレナ、あなたまんまと引っかかるのね。素直だけど、残念な子ね!」
涼し気な声色のズットリオンが、ちらりとカノンセレナーデ達の方を見やった。その瞳は、尾花栗毛の牝馬の心を容赦なく砕いた。
「リオン、あなた……」
「あら、睨まないでね。それじゃ――」
――さよなら、カノンセレナーデ。
そう言って、ズットリオンは先に行く。矢野一達も追いつこうと必死に動くが、そもそもマリーステートが自分達の前から動かないので、どうしようもなかった。
「さあ全馬坂を登ります! ここで前半通過タイムが出ました、タイムは三四・二と出ました! ハイペースになりました新潟2歳ステークス! そして緩やかな坂をほとんどの馬が登り終えました!」
二メートルの坂を越えた時点で、カノンセレナーデは最内の三番手か四番手にいた。
逃げるという作戦は木っ端微塵に打ち砕かれた。馬場も全く綺麗ではない。そして前は塞がれている。四面楚歌と言ってもよかった。
「さあ坂を終えて第四コーナー曲がって直線に向かいます! 逃げたシステマは未だ先頭! 六番カノンセレナーデは最内四番手の位置! これは苦しいか! さあどうなる! さあどうなる!」
スタンドからの叫び声が増していく。床に落ちた何百枚もの馬券は既に踏みつけられ、誰かの足元でぐしゃぐしゃになっていた。
捨てられた馬券のほとんどは、カノンセレナーデの単勝馬券だった。




