第八話「一番人気」
六月の阪神。どこまでも広がるんじゃないか、と思える良馬場の芝が、理想的な若草色を作り上げた。天候は上々。曇る気配もない。絶好の競馬日和、といったような朝だった。
その朝に、カノンセレナーデは馬の姿になって初めての競馬場に到着した。馬運車に乗り、運ばれ数時間程度。レース当日の午前のうちに、関係者らと共に阪神へと辿り着いた。
彼女が出走するのはメイクデビュー、第五レースである。発走は真っ昼間、十二時二十五分の予定なので、走るにはまだまだ時間があった。
セレナは競馬場内にある出張馬房で、その数時間を過ごすこととなる。古川厩務員に手綱を引かれ歩くと、あっという間に馬房へと連れて行かれた。
「またすぐ来るからな」
古川がそう言いながら、セレナの頭やたてがみの生えているあたりを大きな手で数回ほど撫でた。セレナは満更でもなくなって、人間には見えないのだが思わず笑みをこぼしていた。
「待ってるからね」
相手には届かない返事だった。古川はセレナを愛しさで撫で尽くしてから、速やかに馬具を外し、そして馬房から去って行った。
普段とは見慣れない厩舎。周りには見慣れない、知らない馬。カノンセレナーデは、いや、他馬も含めここにいる馬達が、ほぼ完全な一人きりの状態である。人ではないのだから、一頭きりと言ってもいいのかもしれないが。
環境の違う場所で一頭きりであることに不安を感じ、中には寂しそうな声色で嘶いている馬もいた。馬房の壁を蹴っている、気性の激しいやつもいる。そいつの隣で、血管の浮かんだ白目を丸出しにして、片目をひん剥きながら耳を絞っているやつもいる。なにとは言わないが、馬っ気を出しているやつもいる。中には動じずに、うたた寝したり飯を食っているやつ、水を飲んでいるもいる。
誰かが誰かに影響されて、それが広がっているのか。今日の阪神の待機馬房は、なんだか混沌の様子だった。
だが、そんな馬が集まっていても、カノンセレナーデは全く影響されてはいなかった。
「いつ来るのかなあ」
呑気に古川を待ちながら、ときどき気まぐれに水分補給をしていた。他馬のことなんか眼中にないとでも言いたげな、凛とした姿勢をいつまでも保っている。
さっきまでそわそわとしていて隣の馬房の馬が、数分して静まったぐらい、その雰囲気は堂々たるものだった。
暴れている遠くの馬には目もくれず、セレナはそれから数時間、たまに検査等のために馬房を出たりしながらも、レース発走の一時間を切るまでゆるやかにして、出張馬房での一時休憩を満喫していたのだった。
***
検査も完璧に済んだ。体調に異常はない。抜かりなしである。
レース発走まで、時間はもう三十分を切っている。全馬それぞれの厩務員に必要な馬具を装着され、手綱を引かれ、そして蹄の音を響かせている。今はパドックまでの移動時間だ。
阪神の第五競走。出走する、十四頭の二歳馬達。全頭がここで、競走人生の幕を開ける。短いものとなるか長いものとなるか、光となるか影となるか。それはまだ、誰にも分からない。神でさえ知らないことかもしれない。
上手くいけば数年続く、巨大で得体の知れない旅路。それがこの、本番は数分足らずの一戦から始まる。当然、誰もが本気で勝ちを狙いに行っていた。
カノンセレナーデ陣営、そしてセレナ自身も同じことだった。
「これ、パドックよね。お客さんはどれぐらいいるのかなあ」
だが、勝ちを狙うということは緊張するということではない。カノンセレナーデは、いたって平常運転だった。普段の走りをするだけ、それで力を見せるだけ。本気でそう考えているのだ。
セレナの力が、他馬とはまるで違うからだ。
客もそれを分かっていた。このレースの馬券は、カノンセレナーデが単勝オッズ一・二倍の圧倒的な人気を誇っている。デビューする前からネットで有名だったので賭けてみた、応援馬券だけ買ってみた、という人も多いだろう。しかし、それだけではなかった。
走りのみを評価して買う人間達も、こぞってカノンセレナーデの絡む馬券を買ったのだ。ある人は単勝に大金をつぎ込み、ある人はワイドや三連複なんかの複数頭を当てる馬券で堅実に軸にした。
とりあえずこのレースはカノンセレナーデのものだろう。そういう空気感が、やはり漂っていたのだ。
それに対して、カノンセレナーデはどう答えるのか。自分についたオッズなど到底知るはずのないセレナは、さっきから続く和やかなテンションで、パドックに足を踏み入れたのだった。
「わあ、すごい。お客さんがいっぱいじゃない! しかもみんな私を見てる。私だけを見てるんだ。そっかあ……頑張らないと、ね」
発走まで残り三十分。カノンセレナーデ、一番人気。
今日は更新遅れてしまいました!競馬を見てご飯を食べてたら。ごめんなさい……。




