第七話「地獄の門番、スパルタの二世」
五月の上旬、とある男が、栗東トレセン内にいた。彼はラフなシャツに、自分の体よりも一回り程度大きい黒のブルゾンで上半身を包み、下は対照的にラインの出る紺のジーンズを着ている。
表情はなんとも堅い。彼の体格そのものは、一般男性のそれよりも小柄だ。それなのにもかかわらず、黙って立つ姿には威風堂々とした威厳が漂っている。
彼はなにも喋らず、ただ黙って遠くを見ていた。目線の先にいるのは、一頭の馬だ。
「今日はよろしくお願いします」
男の方に近づいてから、古川厩務員がぺこりと頭を下げる。男はそちらの方をちらりと見やって、無の表情を変えることもせず小さく言った。
「よろしくお願いします」
その様子はまるで冷たい人間のようにも思える。だが、古川はその表情を見てなにかに気付き、その辺にいた同じ村松厩舎で他馬を担当している、少しばかり仲のいい厩務員に雑談をかけに行った。
「今日の矢野さん、多分機嫌いいわ」
古川がひそひそと噂話でもするかのように言うと、その厩務員も若干驚いたような、それでいて笑い混じりの顔をした。
「珍しいね、一さんがお前に分かるぐらい機嫌いい感じなのって」
「そうなんだよ。やっぱセレナがすごいからじゃないかな、どうかな?」
「確かに。そうだったらいいね」
なんだか気分を弾ませている古川を、厩務員の男はうんうんと頷きながらなんだかぬるま湯のようなちょうどいい温度感で見ていた。
――彼らの話す矢野一という男は、もちろんあのブルゾンとジーンズを着こなし、白色の尾とたてがみをなびかせているデビュー前の二歳牝馬を眺めている、あの気難しそうな人間のことである。
若干眉をひそめて直立している姿は、なにかの門番と言われても納得がいく。ここにはいないある人は、昔から密かに地獄の門番と呼んでいたという。
古川がその様をなんだか楽しそうに見ていた瞬間、村松がその直立している男の方に近寄った。
「じゃあ矢野さん、そろそろお願いしますね」
二人が矢野に頭を下げる。それを見て古川も小走りで近づいて、その場には三人の男が揃った。
「はい、よろしくお願いします。セレナ、って呼ぶんでしたっけ」
矢野と呼ばれた男は、未だ鋭い刃先のような目つきを保っていた。
そして、調教助手に乗られているカノンセレナーデが、常歩で三人のもとに来た。
「ねえ、この人は誰? 見覚えがあるような気もするけど」
人間がこの問いに答えることはないが、セレナは矢野を見て軽く首を傾げていた。顔や立ち姿に、ぼんやりと覚えがあったのだ。
まるで、前世で見たことがあるような気がしていた。
「矢野さん、お願いします」
「ここまで出かかってるんだけど」とセレナがもどかしそうにしている間にも、調教助手や村松、古川、そして矢野が色々と馬具の調整をしていた。調教助手はとっくにセレナの背から降りていた。
そして、次の瞬間。よいしょ、と矢野が小さく声を立て、セレナにの背に軽く跨った。いきなり騎乗された彼女は小さく驚きかけた。だが乗られているので、下手には動けないと自制している。自制しつつ、セレナは次の刹那に一つの記憶を巡らせた。
「ま、まさかこの矢野って人……」
――ダービー未勝利のリーディングジョッキー。常に冷徹な顔をしているので、ついたあだ名は地獄の門番、鬼の一。昭和の天才騎手、矢野信玄の次男。騎手としては三年目に桜花賞でGⅠを初制覇した、エリート二世。矢野一ジョッキー。
セレナもとい前世のリカも、もちろん矢野一のことは常識のように知っていた。むしろ競馬場で生の矢野を見て応援したり、逆に知らない中年男性らと共にほんの些細な喝を入れたこともある。喝という名の怒声なのは言うまでもないが。
そんな矢野が、転生した自分に今、乗った。跨がられている。しかも今、手綱を引かれている。
現在が調教の時間だということは、セレナ自身理解している。きっとあと少ししたら、走らされる。あの伝統芸にもなっている、ガシガシとしたスパルタじみた騎乗で。
「まさかだけど、もしかして最初のレースのジョッキーって……」
幸せでもあり不幸でもある結果への予感が、セレナの頭の中を素早く駆け回った。
そのときに、彼女の鋭い聴覚が古川と村松の言葉を捉えた。
「いやあ、確保できてよかった」
――セレナは思った。こんな話は聞いてない、と。お前の主戦が矢野信玄だったのは知っている。だが、だからって息子に縁を持たせるなよ、ダイアモンドサイドめ、と。
「走ります」
矢野の声が後ろから聞こえた。セレナはこの姿になって初めて、諦めと軽い絶望を覚えたのだった。
***
「なんだかんだ優しい人だったなあ」
数週間後。セレナはもうあの調教前に感じた絶望などすっかり忘れてしまっていた。いざ走ってみたら意外と矢野の騎乗は激しくなく、それどころか鞭を使用されたのも一回や二回だけだった。ほとんどの時間は、好きに走れとでも言わんばかりに流された。
それがどういう意味なのか、カノンセレナーデは知らない。普段は追わせる矢野が、なぜ追わせなかったのか。
「数日前ぐらいにも乗ってもらったけど、やっぱり流されたし。思ったより優しい人なのかな?」
呑気な牝馬だった。そんな彼女のもとに、足音をこっそり、だが聞こえるように立てながら近づいてくる男がいた。
「セレナ、おはよう。もうデビューだよお、早いね。出発するよ」
深夜と早朝の合間を縫われた時間帯。いつもに増して目が眠そうになっている古川厩務員が、セレナの馬房に来て挨拶をしてくる。その手には、今から装着する馬具が握られていた。
「え、もうデビューなの?」
セレナから、間抜けた声が漏れた。
――今は六月の下旬、日曜日の午前四時半である。
矢野一は今後、余裕ができたらこの人に関するスピンオフを何作か書く予定です。競馬界にはいない一のお兄さんの話と、彼に初めてGⅠを勝たせた馬の話。




