第六話「大物牝馬、入厩」
月日は追いつくのが大変なほどに早く過ぎ去る。気が付いた頃にはもうカノンセレナーデは二歳になっていて、そして今は麗らかな桜が咲き誇る四月、つい誰かがうたた寝してしまいそうなほどに、和やかで温暖な春の真っ只中だった。
「セレナもついに入厩ですね」
「そうですねえ、これから寂しいですけど、応援しましょう」
深夜三時、小池田ステーブルの職員達が白い星の模様が見える夜空を見つめながら、ぽつぽつと話をしていた。
昨日の昼頃、カノンセレナーデは小池田ステーブルを去った。今頃はフェリーに乗り、栗東トレセンの村松厩舎へ向かって旅をしている。丸一日かかる、セレナにとっては最初の長旅だった。
小池田ステーブルに、もう尾花栗毛の牝馬はいない。
職員達は他馬の世話をするための準備を始めつつ、もうここに尾花栗毛の牝馬が来ない。そのことを、美しい夜空と桜に流されるようにして、ほんの少しだけ苦しく想ったのだった。
***
翌日の早朝。空は紫と橙がマーブル模様に混ざり合って、絵画のような東雲になっている。
淡く広大な空が青天井、いや紫天井で貼り付けられている滋賀の栗東トレセンで、一つ二つ、大きな物音がした。馬運車――奇しくも、馬運車の名前はダイアモンドサイド号――の到着音だ。
「おお、ついに来たね。大物が」
絶賛大躍進のスター、村松晃盛が馬運車の方をじっと見ながら、軽く笑みを浮かべている。茶目っ気を多分に含んだ笑い顔とともに、朝焼けと馬運車から出てくる牝馬――カノンセレナーデを、ただどこまでも貫くように見つめていた。
「これからよろしくね、セレナちゃん」
村松は、セレナの担当になる厩務員、古川哲弥と彼女を出迎えた。
これが、競走馬カノンセレナーデが入厩してから迎えた、最初の朝になった。
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時が経ち一週間後。カノンセレナーデはすぐさま厩舎の馬房という新しい環境にも慣れ、それから難なくゲート試験に合格した。
普段から数々の馬に騎乗している村松厩舎の調教助手でさえ驚くほどに、セレナはゲート内でもいつも通りの平静を保っていた。いくら待たされてもあるいは待たされなくても、セレナは動じない。中身の前世が人間であることなど助手は知る由もないので、彼はこんな馬は珍しいと、最初から彼女の気性を絶賛した。
だが、調教助手が本当に目を見開いたのはそこではなかった。むしろ、ゲートを出た直後のことだ。
行きっぷりが、どの馬にも真似できないのではないかと助手に思わせるほど、とにかく速い。当然、気性が荒いから逃げようとしているわけでもない。
まるで、力そのものが他馬とは違うような、そんな空気感があった。実際、バテてもいない。それどころか、誰よりも楽々と走っている感覚が、助手の手綱を通して伝わってきた。
この助手は、村松厩舎の桜花賞勝ち馬にも調教で騎乗している。力のある馬どころではない、クラシックという最高峰の舞台の頂点に立った、最強の馬の背でさえ知っているのだ。
そんな男が、ただの二歳牝馬のゲート試験で、そのスピードに言葉を失った。
「カノンセレナーデ、ゲート試験の時点で完成してるんじゃないかってくらい、とにかくすごかったです。乗ったことがない感じ。今までに会ったことないタイプの、多分なかなかすごい馬だなあ。メイクデビューの日程、予定してたより早まるかもしれません。予定では夏の新潟とかでやらせるはずだったんですけどねー」
助手は、誰でも閲覧可能なネットブログで軽くこんな文を漏らした。
これは、関係者やファンが新馬戦を急かすほどに待ち遠しく思うのには、充分なファクターだった。
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ゲート試験後、どうするか安元と村松が話し合った。通常の馬は、試験後は成長を促すために外厩施設に入るのが一般的だ。
だが、村松は安元に対してこう口にした。
「あの子、このままいって六月に走らせても大丈夫そうですけどね」
今は四月の終わり頃。今から外厩を挟んだら、六月の新馬戦にはまず間に合わない。
ここで、大半の馬なら外厩で成長させる方向を優先し、六月デビューを選ばず七月や八月の北海道でデビューさせるやり方が選ばれるだろう。
しかし、ここで話されているのはカノンセレナーデだ。この牝馬の存在を知っている誰もが、確信していた。セレナはその方法を選択しなかったとしても、きっとできる、と。
「僕も、確かにそう思います」
安元も当然、そうだった。それどころか、セレナの可能性を一番に信じているのはこの男でしかなかった。村松の発言に、彼も軽く頷く。
「じゃあ、そうしちゃいましょうか」
こうして、カノンセレナーデの日程が大まかに決まった。その後何回か検討を重ねられ、確定した。
――カノンセレナーデ、六月の阪神競馬場、芝の千六百メートル戦でデビュー決定。外厩は、使わない。
デビュー戦の地は、未来の第一目標である桜花賞と同じコースだった。ここで勝たなければ、カノンセレナーデの競走馬人生は幕開かない。
そして、だからこそ絶対に勝つ。セレナの動向を追う全員が、そう確信したのだった。




