第五話「直感で決めるとしたら」
カノンセレナーデは小池田ステーブルで伸び伸びと成長していき、日に日に速く、そして強くなっていった。気性も穏やかなので、騎手を乗せるための馴致も好調。ゲート練習も完璧に近かった。
周回コースでは毎日余裕しゃくしゃくで他馬を追い抜き去るので、逆に他の馬のやる気が削がれそうだと思われ、早々に一頭だけで走ることとなった。それでも計測されるタイムは、毎度毎度現役の競走馬と遜色ないものだった。一歳馬の大まかな目安となる一ハロン十五秒どころか、一ハロン十三秒台前半の数字を出す日も少なくなかった。
これには、必要もないのにわざわざ東京から北海道まで隔週で来ていた、馬主の安元も仰天した。小宮牧場のスタッフ達も、小池田ステーブルの関係者から話を聞いて驚愕した。スタッフの中でも数人は、文字通り腰を抜かした。そしてネットでも、もはや呆れにさえ近い驚きの声ばかりが上がった。
彼らのほぼ全員が、こう思っていた。早く来年の、カノンセレナーデの新馬戦が、見たくて見たくてたまらない、と。
――そして気付けば一歳の冬がやってきて、時期は十二月。競馬界は有馬記念とホープフルステークス、東京大賞典なんかのビッグレース続きで大わらわだった。
例年よりも北海道が少しだけ肌感覚で暖かい、そんな年末年始。馬主である安元は、とある決断について悩んでいた。
調教師である。どの厩舎に入るのか、調教師は誰なのかというのは、競走馬の人生そのものを左右しかねない重要な要素である。適当に決めていいわけもなく、そして安元がそんなに軽くセレナ周りのことを考えるわけもなかった。
「前の三頭はもうみんな入厩してるし、普通に考えたらその中から空きのある厩舎に頼んだ方がいいよな。でもな、どの厩舎もあんまりセレナに合わない気がするんだよな……」
一人きりのオーナールーム。まさに東京が凝縮されたかのような夜景をカーテン越しに背にやり、オフィスチェアをぐるぐる回転させながら安元は独り言ばかりを呟いていた。
上を見上げれば、豪華で繊細に飾られた照明が目に入る。暖色の広い部屋には、一年ほど前にはずっといた友はいない。
もし彼がここにいたなら、安元の独り言を聞いて笑っていただろうか。
なにをそんなに考え込んでるんだ、直感で決めろよ、と言っただろうか。
「……なんてな。はあ、なに考えてんだ、俺は」
安元は既に友と絶交している。新しい事業仲間だってできた。仕事を引き継いでくれる人間も現れた。なにより、今の安元杏也にはカノンセレナーデがいるのだ。もう寂しい日など、一日たりとも存在しなかった。
だが、こういうふとした瞬間に、あいつならどうしただろうか、が浮かぶのが人間の儚い性である。もう自分の元には帰ってこない人を思って、あの人ならここでどんな言葉を吐いただろうかと考え――そして、そこからなにかを得る。
「直感、直感なあ。あいつは直感好きだったなあ」
はあ、と深めのため息が吐かれた。回転の余韻で小さく揺れるオフィスチェアにぐったりと座り込んで、安元はだらんと天井を見上げた。さっきまでと変わらない、暖色の天井。
「……今、セレナの調教師を直感で決めるとしたら誰だ?」
彼の口から、ふとそんな言葉がこぼれ出た。
「考えるとしたら、誰だ」
その瞬間、安元の記憶が駆け足で動きはじめた。もし、カノンセレナーデの調教師を直感で決めるとしたら、自分は誰をいいと思うのか。その答えを知るためだけに、彼の脳は回路を辿り、記憶を蘇らせた。
数秒後、小さくて少しだけかすれた声が、薄いオレンジ色のオーナールームに漂った。
「――村松晃盛厩舎」
村松晃盛。それは、ちょうど三日前に行われた有馬記念の勝ち馬の調教師だった。
競馬界では今をときめくスター調教師として知られる村松。開業したのは八年前で、今までは中堅程度の立ち位置だったが、ここ数年で進化し、覚醒したと言われるほど実績を上げ続けている。
有馬記念だけでなく、今までには桜花賞、マイルチャンピオンシップ、大阪杯の勝ち馬を生み出している。GⅠ以外の重賞でも、五勝を挙げている。この全てが、過去三年以内の実績だ。
主にマイルや中距離レースで、最大限まで馬の力を引き出すことをモットーとして活動している。そして、同時に掲げているモットーは――全ての馬を、人の力で幸せにすること。
今が全盛期の、巨大厩舎。既に牝馬のクラシック路線で勝利を手に入れている。そして大切にしていることは、馬の力を引き出すことと、馬を幸せにすること。
「村松厩舎、か」
――悪くないな。
***
「え、村松厩舎と契約したんですか?」
「なにか、ダメでしたかね」
「いや逆です。むしろめちゃくちゃすごいです……」
小宮牧場と小池田ステーブルのスタッフは、それぞれ似たような反応を返した。




