第四話「救われたんです」
年月が経つのは意外と早いものである。気付けば花ちゃんが生まれた春先から一年が経過し、季節は一周した。
彼女が生まれた頃は高松宮記念がやっていたというのに、今はもうその年の有馬記念が終わり、既に今年の宝塚記念が終了した。
例年よりも、涼やかな夏だった。七月の下旬、空は絵の具で塗りたくったかのように真っ青で、馬たちの走る草地もこれまた健やかな真緑である。
馬の走る音と人の声、馬具の金属的な音、稀に来る車やトラクターの音。のどかとは言えないが忙しないとも完全には言いがたい、どこか独特な空気の漂う場所だった。
――ここは小宮牧場ではない。小池田サラブレッドステーブル、通称で小池田ステーブル。馬を生む牧場ではなく、馬を育てる牧場である。小宮牧場とはまた別の会社が経営している。
小池田ステーブルの周回コース内。それは白か金か、輝く毛先を揺らしながら一頭の馬が走っている。彼女は華麗に、そして人間が瞬きをする間に他馬を追い抜き去っていった。
「やっぱりあの子、すごいですね」
「ああ。おそらく脚も両利きだし、可愛いだけじゃない逸材ですよ。これからが本当に楽しみですね――」
――カノンセレナーデ。
***
花ちゃんは、当歳の冬にカノンセレナーデへと生まれ変わった。昨年の十一月、彼女の馬主が決定したタイミングである。
彼は、凍てつく寒さと雪が襲う冬の北海道に、自ら足を運んだ。東京都心から数時間かけ、わざわざ小宮牧場にまで単身でやってきた。
「花ちゃんを、購入させていただけませんか」
そして、牧場の中のある一室で、小宮牧場の経営者――小宮謙三と顔を合わせ、直接、頭を下げた。
安元杏也。彼は若くして東京都心で高級ホテルのオーナーになり、他にもいくつかの会社や事業を経営している。いわば、ぎらぎらと輝く東京の街に生きる、現代的でスタイリッシュな雰囲気の漂う大金持ちだ。
そんな男が、今は一頭の牝馬を買うためだけにわざわざ極寒の北海道に赴き、中規模牧場の経営者相手に頭を下げ、こうして切に懇願している。
「安元さん、あなたの馬主歴は?」
謙三が問いかける。
「半年です。花ちゃんのために、馬主資格を取りました」
「所有馬は今、何頭いるんですか?」
「三頭です。全頭、先月のオータムセールで購入しました」
馬主資格を取得してから、たったの半年。馬を所有してから、たったの一ヶ月。安元は超がつくほどの新人馬主だった。
謙三の立場で考えてみれば、安元に花ちゃんを預ける理由など到底見当たらなかった。今やあのネットでの拡散もあり、花ちゃんは世界中から注目を集めている馬だ。
謙三の祖父が作り上げ、親子三代にわたって継がれ、小宮牧場も創業から八十年。この長い歴史の中でも、競走馬として一番の成績を残すことになるかもしれない、期待の牝馬。それを新人馬主にやすやすと渡す真似は、普通の牧場であればしないだろう。
安元が、花ちゃんの馬主になれなかったら終わると言わんばかりの、必死の形相と空気をまとっていなければ。
そして、これまでに既に花ちゃんを消費しようとする何十人もの馬主達が、小宮牧場に押しかけてきていなければ。
「どうして、そこまでして花ちゃんを購入したいと思うんですか?」
謙三の疑問に対し、彼の目を貫くようにして見つめながら安元は答えた。
「花ちゃんに助けられたんです」
「と、言いますと?」
「今年の春、ホテル経営を一緒にしていた仲間と、仲違いをして別れてしまったんです。僕の人間性に関する言い合いの後に、そうなりました」
安元の声のトーンが、徐々に下がっていく。熱弁はあっという間に、語りになった。
「僕は経営者として生きてるので、損得勘定を物差しにすることがあります」
「そうですね」
謙三も、彼の話に聞き入っていた。経営者同士、共感できるものがあると話の中で見出したのだろう。
「でも、仲間は人に優しく、損得なんて気にせずやろう、というタイプの人でした。僕は仲間のその平穏な人柄が、嫌いではありませんでした。でも、あちらはそうじゃなかったようです」
安元が俯いて、ズボンの裾を握った。
「結局、仲間は離れていきました。ホテル経営は問題なく続いてますが、ずっと一緒にやってきた人を言い合いでなくすのは、僕にとっては悲しかったです」
「そうですね」
謙三は彼の話に深く頷いていた。安元は、話を続けると共にゆっくりと顔を上げていく。
「深く悲しんでたときに、僕、ネットで花ちゃんを見たんです。あの投稿です」
二人の間にある、見えない空気が変わっていく。
「花ちゃんに、あのときの僕は助けられたんです。花ちゃんが自由に走り回ってから、カメラに近づいてくるところを見て、すごく心が楽になったというか、悩みが小さくなっていく気がしたんです。なんというか、言葉にはしづらい感覚、なんですけど」
話す安元の表情が、複雑になっていく。そこには、彼から花ちゃんに対する形容のしがたい感情が入っていた。
それを言い尽くせはしないが、強いて乱暴に言語化するとしたら、その感情は――恋、に近しいものだった。
それを見た瞬間、謙三の心がはっきりと揺れ動いた。安元はただネットを見ただけの新人馬主ではないと、そのとき確かに彼の心がそう思えたのだ。
「……だから、馬主になったんですか?」
「はい。こんな僕ですが、花ちゃんをもし、もしも預けてもらえるなら……」
それまで動き続けていた安元の唇が、一瞬だけ止まった。だが、次の瞬間にははっきりと、今までのどんな言葉よりもはっきりとした言葉が、その口から出た。
「花ちゃんを、世界一強くて、世界一幸せな馬にしてみせたいんです」
――この言葉が、小宮謙三の心を射抜いたのだった。
***
小宮牧場出身、ホープチューン産駒の当歳馬はこうして庭先取引で、一億円で落札された。そして名前も尾花栗毛の花ちゃんから、安元が最初から決めていたカノンセレナーデになったのだ。
「そういえば最近、花ちゃんって呼ばれなくなったなあ」
「おーい、そろそろセレナ走らせるの止めようか!」
「セレナ、ってなんのセレナなんだろう……?」
カノンセレナーデ、愛称はセレナだ。




