第三話「人気者になるということ」
自分は一体、どんなサラブレッドになってしまったのだろうか。そんな一抹の疑問と不安をどこかに抱えながらも、とりあえず牝馬は小宮牧場でまったりと過ごしていた。少し時間が経つと、名もなき牝馬にはいつの間にか花ちゃんという幼名もつけられた。尾花栗毛の花ちゃんだ。
「花ちゃん、こっちおいで!」
牧場のある若い女性スタッフが、一面の草原の中でスマホを握っている。起動されているアプリはカメラ。そこに映し出されようとしているのは、辺りを駆け回っている最中の花ちゃんだった。
純粋に牧歌的な風景そのものだった。現代的すぎるスマホさえなければ。そして、花ちゃんの脚がこうも高速でなければ。
「うわ、早いな」
一秒前までは花ちゃんの愛らしさにまにまとしていた職員も、思わず真顔になってしまうほどの早さだった。まだ生まれて半年もしない当歳馬なのに、これではもうれっきとした競走馬みたいだった。今から実際のレースを走っても、スピードはなんら劣らないぐらいだ。
花ちゃん本人は、この体を難なく動かせるかという確認しかしていなかったのだが。ほんの少しだけ、どこか楽しさやすっきりとした気持ちがあった程度だ。
「は、花ちゃんは本当に早いねえ。ずっと走ってるし、走るのが好きなのかな。でもとりあえず、こっちおいで!」
その脚に将来性を感じて恐れ慄きながらも、スタッフはカメラを回し続けていた。
「なあに、そんなにずっとスマホ持って。私のこと撮ってるの?」
そう言いながら、花ちゃんは早歩きのような軽いステップでスマホに近づいていく。人間時代にこれでもかというほど触った物なので、馬の姿になってもスマホに特段なにかを思うこともなかった。ひょこひょこと歩きながら、スマホと距離を縮めていく。
「ああやばい、可愛い。ほんと可愛いねえ花ちゃん!」
カメラには大きく映し出された花ちゃんの顔面と、スタッフがそのあまりの愛くるしさに黄色い声を上げている様子が、ばっちりと収録されていた。
――その動画は数時間後、とあるソーシャルメディアにある小宮牧場の公式アカウントにて投稿された。普段ならば、熱心な競馬ファンや馬が好きな人しか見ないであろう、ただの一牧場のアカウント。
最初はただの、日常的な投稿のはずだった。ただ当歳馬がスマホに顔を近づけていて、スタッフの高い声が入っている。それだけのはず。
だが、この投稿は瞬く間に――とてつもなく人気になった。花ちゃんも女性スタッフも可愛すぎると、ネットでは拡散の旋風が巻き起こった。いいねも再投稿もブックマークも、引用にいたるまで全ての数字があっという間に、そしてとにかく爆発的に増えていったのだ。それは動画を撮った女性スタッフも、予想だにしていなかった。
「ま、まさかこんなバズるとは思わず。どうしよう、なんか声とか恥ずかしいかも」
「いや気にすることないよ、なにこれすげえ!」
「俺ここのアカウントでこんな数字初めて見ましたよ。めっちゃやばいですね、これ」
「本当だ。これは花ちゃんの可愛さのおかげですね!」
牧場、そして花ちゃんの知名度がぐんぐんと右肩上がりになっていく。
スタッフ達の中には、それに安心を覚えている者もいた。
競走馬というのは、たとえ強くなかったとしても走る前から可愛らしさで人気を手にすれば、ある程度の平穏な馬生は手に入れられるというものなのだ。かつてのハルウララに代表されるに、勝てなかったとしても人から見える愛嬌さえあれば、案外どうにかなる。
当然、まだ当歳馬なのにも関わらずあの脚があるのだから、彼女が強くないとは誰も到底思っていない。だが、平穏な生活がこれで一定約束された気がして、誰かはほっと胸をなで下ろしていた。行き先のないサラブレッドが、これでまた一頭減ったのだ、と。
***
スマホの画面の向こう側には、基本的に人間がいる。最近では人工知能がいる場合もなきにしもあらずだが、まだ大半は人間だろう。
その男も、れっきとした人間だった。
「花、ちゃん」
動画の投稿文に書いてある名前を、何度も何度も小さく声に出し、呟き、反芻している。
自由に草原を駆け回ってから、スタッフのいる方にステップを踏みながら近づいていく。言ってしまえば、それだけの動画内容。だが、男のそれを見る両目はうるんでいた。
その様はまるで、新たな神に出会ったかのようだった。




