第30話 わたくしの名で、最後の一面を削りました
水を汲むところから始めた。
証石院の裏の井戸から、桶に一杯。春分の水はまだ冷たい。指を浸けると、感覚の薄いところが余計に薄くなる。
卓の上に布を敷く。自分の布だ。証石院のものは使わなかった。
道具箱を開け、砥石を並べる。一番から七番まで、左から右へ。
その隣に、父の欠けた仕上げ砥を置いた。角が斜めに割れていて、もう使えない。置く必要はない。置いた。
広間は静まり返っている。三十人が息をひそめる音というものが、この世にはあるらしい。
硝子の天井から、光がまっすぐ落ちている。
三百年の家石が、布の上にあった。持ち手のところが鈍く光っている。何代もの親指が撫でた跡だ。
この石に窓を開ければ、跡は残る。二度と消えない。
削れば、戻らない。
十二面目に、浅く窓を開ける。
深く削ればいい、というものではない。深く削れば、確かめる前に石紋そのものを削り落としてしまう。開けるのは、髪の太さの数倍。それ以上でも、それ以下でも駄目だ。
一番の粗砥は使わない。粗砥は速いが、止まらない。
三番から入る。
水を落とし、角度を決めた。石の内側の筋を、指の腹で探す。
感覚が、半分ない。
ヴィオラは目を閉じた。
指が駄目なら、音で聴く。石に当てたとき、筋に沿っていれば「しゅ」と鳴る。逆らっていれば「ざ」が混じる。
当てた。
しゅ、と鳴った。
筋に沿っている。ここから先は、手を止めない。止めれば、止まった跡が残る。
息を吐く。
削る。手首と、指の三点。三点のうち二つが利かないなら、手首で持たせるしかない。肘を落とし、肩から下ろす。若い頃の父が、そうやって削っていた。腰が悪くなってからの姿勢だ。
子どもの頃に見た背中を、いま自分の背中がなぞっている。
父は断って、削らなかった。先生は嘘を名乗って、削らなかった。
二人が削らなかった石を、いま自分が削っている。同じ手で。
「番手を上げな」
傍聴席から、声がした。
誰も咎めなかった。
ヴィオラは三番を置き、四番を取った。飛ばさない。今日は、一つも飛ばさない。
四番。五番。六番。
石が音を立てなくなった。ここからは、目と光だけになる。
七番を当てる。
窓が開いた。
拡大鏡を取った。手が震えている。震えたまま、覗いた。
断面が見えた。
石の内側の、白く濁った気泡の並び。三つ。斜めに走る細い傷が一本。
ヴィオラは顔を上げた。
「院長様。記録を」
院長が古い綴りを開き、検分官が写しを卓に運んできた。一〇二八年の石紋の記録。粗い墨の線で、気泡の位置と深さが記されている。
照らし合わせる。
記録では、この深さに気泡が五つ。
現物には、三つしかない。
「二つ、失われております」
ヴィオラは拡大鏡を置いた。
「削られたからでございます。この石は、記録の時点より薄くなっております。薄くなった分の面が——十二面目でございます」
広間が、静かになった。
誰も動かなかった。
ドルセー侯爵だけが、背に回していた手を、ゆっくり前に戻した。
その手には、何も嵌まっていない。夜会でも、応接でも、この人は一度も指輪をしていなかった。
面の数を数えられないように、ではなかったのかもしれない。
自分の家の石を、見たくなかったのかもしれなかった。
裁定が出るまで、三日かかった。
ドルセー侯爵家の家石は、一〇二八年の記録に照らして十一面と認定された。王位継承の請求権は取り消された。四年前の依頼について、侯爵は最後まで認めなかった。だが石が認めた。
ヴィオラはその場にいなかった。
行こうと思えば行けた。傍聴は許されている。それでも行かなかった。
ガルニエ工房は認可を失い、オーギュストは一言も弁明しなかった。セルジュは工房の看板を外す日に、外す理由を弟子に聞いていたという。
ヴィオラには、三月の禁錮が申し渡された。
無認可で家石に触れた罪は、消えない。申立人であったことも、真相を明らかにしたことも、罪を軽くはしても、なくしはしなかった。
院の独房は狭く、窓が高い位置に一つあった。
朝、その窓から光が入る時刻に、ヴィオラは掌を光にかざした。
何もしていない手が、これほど長く休むのは十年ぶりだった。
三月のあいだに、指の腹の感覚が戻ってきた。硬いところは硬いままだ。爪は伸びた。爪切りがないので、壁の石で削った。
クレールが二度、面会に来た。伯爵は春に亡くなり、代替わりの申請は九面のまま通ったという。九面で構わない、と兄が言ったそうだ。
アニエスは五度来た。四度目に、ガルニエ工房を辞めたと言った。五度目に、砥ぎ町の別の工房の炊事場に入ったと言った。
六月の初め、宝物監府の台帳庫。
ラウルが梯子を掛け替え、空の木箱を一つ下ろしてきた。
卓の上に、布が敷いてある。彼が敷いたものだ。
「見本片を」
ヴィオラは布の上に、小さな石片を置いた。禁錮の明けた翌日から、三日かけて削ったものだ。親指の爪ほどの大きさで、面が四つ。
左肩から入って、時計回り。四番は飛ばしていない。稜線の手前で、仕上げをわずかに残してある。
父の癖だ。自分の癖だ。
ラウルは手袋を外した。
素手で石片を持ち上げ、光にかざし、それから窪みに嵌めた。
箱の蓋の内側に、紙を貼る。日付を書く。
「一一二八年六月三日。認可研磨師、ヴィオラ・ルサージュ」
彼は筆を置いた。
「これで、正確になりました」
ヴィオラは箱を見ていた。
二百十四の箱が並ぶ棚に、一つ増えた。ただそれだけのことだった。
台帳は分厚い。誰も読まない。読むのは、この人だけだ。
「デスタン様」
「はい」
「宝物監府は、どうなさいますか」
「命令者の欄を埋めましたので、証石院の査問がございました」ラウルは箱を棚に戻した。「三月の停職です。先月、明けました」
「戻られたのですね」
「戻りました。台帳を書ける者が、他におりませんので」
彼は棚を見上げたまま言った。
「それに、あなたの箱を入れる者が要ります」
棚のいちばん上には、返上者の古い綴りがある。父の見本片も、マチルドのも、あの奥にある。
窓の高いところから、六月の光が落ちていた。
ヴィオラは何も言えなかった。
言えなかったが、今度は、言えないことが分かっていた。
砥ぎ町の外れ、水路の突き当たりに、小さな工房を借りた。
十年前まで、父の工房があった場所だ。建物は建て替わっている。それでも、窓は北を向いていた。
朝いちばんの光が、作業台の右半分にまっすぐ落ちる。石を見るには、この光がいい。父もそう言っていたのだと、いまになって思い出した。
最初の客は、飾り石を一つ持ってきた麓の商人だった。看板には、まだ何も書いていない。
「ルサージュ工房で、間違いないかね」
「はい」
答えてから、ヴィオラは少し黙った。その名を人の口から聞くのは、初めてだった。
ヴィオラは道具箱を開けた。砥石を並べる。一番から七番まで、左から右へ。
石を、台に置く。
布は、敷かなかった。




