【99】嵐の海の魚介鍋
嵐は三日目になっても、屋根を叩く手を弱めなかった。
漂着者たちの顔色は戻りつつある。けれど重傷者は、まだ瞼を上げない。シャルロッテが火口の前で薬膳を仕込み、修道院のシスターたちは濡らした布を替え、脈を取り、夜通し寝台のあいだを歩いていた。
布の人物だけは——三日間、一度も粥に口をつけなかった。
毎食、わたしは温かい椀を置き、冷えきった椀を下げた。粥の表面に張った薄い膜を見るたび、胸の奥が硬くなる。布の人物は顔を背けたまま、わたしの目も、声も、受け取らない。
「あの人、何も食べていません」
「分かっている」
殿下の眉間には、深い皺が寄っていた。
「だが、無理にこじ開けて食べさせるわけにもいかん。フィンが見張っている。危ない動きは、今のところない」
「このままだと衰弱して——死んでしまいます」
「リーゼ。あの人間は——」
「分かっています。ダークエッセンスの使い手かもしれない。でも、目の前で誰かが飢えていくのを、黙って見ていられません」
殿下は唇を結び、短く息を吐いた。
「お前は、いつもそうだ」
「はい。いつもそうです」
* * *
嵐の三日目の夕方。
海鳴りが、ふっと遠のいた。風も息継ぎをするみたいにやむ。嵐の目に入ったのかもしれない。
その隙に、辺境の村の漁師が海岸へ走った。戻ってきた肩には、海藻の絡んだ籠。嵐で打ち上げられた魚介が詰まっている。フリュスクレープスに似た甲殻類、まだ殻を閉じようとする二枚貝、身の締まった白身魚。
「リーゼさん、これ使えるか?」
漁師の若者が、修道院の厨房の床へ籠を下ろした。潮水が石床に跳ねる。
「使えます! ありがとうございます!」
考えるより先に、指が動いていた。
魚介鍋だ。
港で教わった殻出汁は、殻をよく潰してから。草原の発酵は、入れすぎれば海の味を曇らせる。山の燻製は端を刻めば足りる。修道院の薬草は、冷えた体に届くものを選ぶ。旅で覚えた手つきが、鍋の前で勝手に並んでいった。
甲殻類の殻を熱い鍋肌で炒めると、赤い香りが立った。木べらで押し割って水を注ぎ、浮いた泡を掬う。ロレンツォさんの魚醤は数滴だけ。ユーリアの馬乳酒の菌株で作ったヨーグルトは、酸っぱさが顔を出さない量にとどめた。ハンスさんの燻製肉の端切れを刻んで沈め、シャルロッテの薬草は手のひらで揉んでから加えた。
仕上げに、白身魚と二枚貝を並べる。蓋をした鍋の中で、貝がこと、こと、と小さく鳴った。
蓋を開けた瞬間、修道院の厨房へ海が押し寄せた。
潮の湯気の奥で、甲殻類の赤い旨味が太く立つ。発酵の酸味は舌の端を起こし、煙の苦みが底を支えた。薬草の青い温かさが、最後に喉へ残る。
わたしは鍋を覗き込み、木べらを握ったまま息を忘れた。
今まで作ったどの料理よりも、味の層が深い。なのに重くない。荒れた海の向こうから、ここまで歩いてきた道が、湯気に紛れて立ち上がる。
旅で拾ったものが、鍋の中で一つの味になっていた。
* * *
大広間に、大鍋を運んだ。
修道院のシスターたち。嵐を避けて修道院に残っていた、辺境の村の漁師たち。そして——漂着者たち。
全員が、一つの大鍋を囲んだ。
椀を配る。熱くて、縁を持つ指が赤くなる。
最初に口をつけたのは、シャルロッテだった。
「……リーゼ」
シャルロッテの目が見開かれた。椀を胸元に寄せ、湯気を逃がさないようにしている。
「これは——わたしの薬草と、あなたの料理が——」
「はい。旅で学んだものを、入れました」
「全部を、鍋に……」
シャルロッテは二口目を含み、しばらく噛むように味わった。
「海があるわ。草原も、山も、修道院も。ばらばらだったものが……同じ湯気の中にいる」
殿下も口をつけた。
椀を持つ手が止まる。
沈黙のあと、殿下はまばたきをして、こちらを見た。
「リーゼ。これは——」
「はい」
「今まで食べた中で、一番——」
殿下が言葉を探す。眉をしかめて、もう一度、鍋の湯気を吸った。
「一番、広い味だ」
広い。
深いでもなく、美味いでもなく、広い。
殿下の言葉を聞いた途端、鍋の中に詰めた距離が、わたしにも見えた気がした。
漁師たちも、シスターたちも、黙って食べた。匙が椀の底をこする音だけが続く。熱いものを口に含み、喉を鳴らし、また椀へ顔を近づける。
漂着者たちも、椀を受け取って食べた。
敵国の人間が、帝国の料理人の魚介鍋をすすっている。
嵐のただ中で、敵と味方の椀から同じ湯気が立っていた。
そして——
布の人物の前に、わたしは椀を置いた。
四日目の椀。
「今日は、特別な鍋です。よかったら」
布の人物は、わたしの顔を見た。
暗く、鋭い目。三日間、石のように動かなかったその目が——
かすかに揺れた。
湯気が布の隙間へ入り込む。甲殻類の赤い香り、発酵の酸味、煙の底、薬草の青さ。布の奥の鼻先まで届いたのが分かった。
布の人物は、震える手で椀を持ち上げた。
唇に近づける。
一口、含んだ。
……動きが止まった。
布の隙間から見える目が、大きく見開かれる。
椀を持つ手が震えていた。
やがて布の奥から、かすれた声が漏れた。
「……あたたかい」
三日前の若い男と、同じ言葉。
でも、その声にはもっと深く、ほどけきらない何かが混じっていた。
布の人物は、次の一口を飲んだ。
また一口。
さらに一口。
椀が空になった。
布の人物はうつむいた。
肩が震えていた。
泣いているのか、怒っているのか、分からなかった。
わたしは黙って空の椀を下げ、新しい一杯を注いで戻した。
布の人物は、その椀も飲み干した。




