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【98】漂着者

 海岸は、船の残骸と呻き声で埋まっていた。


 砕けた船体の板が岩場に噛みつき、裂けた帆が濡れた布のまま石に張りついている。折れた帆柱は斜めに海面へ突き刺さり、ほどけたロープが波に揉まれて、海藻のように浮き沈みしていた。潮と、濡れた木と、血の匂いが鼻を刺す。


 そして——人。


 十数人の男女が、岩場に倒れていた。身じろぎもしない者がいる。浅い息だけを繰り返す者がいる。傷口を押さえた指の隙間から、呻きが漏れていた。衣服はゼルギウス風の深い緑で、濡れた袖に、紋章入りの腕章が張りついている者もいた。


 辺境の村の村長、ヨハンさんは、海岸から十メートルほど離れた場所で足を止めていた。腕を組み、顎を引き、岩場のほうへ一歩も近づかない。


「敵国の人間だ。助ける義理はない」


 声は、波より冷たかった。


「連中の国が何をしてるか、知ってるだろう。北の国境で、うちの漁師が何人も連れ去られている。こいつらを助けたとなれば、次は村に報復が来るかもしれん」


 村の男たちは、村長の後ろで口を結んでいた。誰かの拳が、濡れた上着の裾を握りしめている。


 わたしは、村長の前に立った。


「ヨハンさん」


「お嬢さん、悪いが、これは村の問題だ。余所者が口を——」


「わたしは、料理人です」


 喉の奥が少し塩辛かった。それでも言葉は曲がらなかった。


「料理人は、皿の前でお客さまの素性を選り分けません。目の前に、お腹を空かせて、寒さに震えている人がいる。いま見るのは、そこです」


「だが——」


「ヨハンさん。村の邪魔はしません。修道院で怪我人を受け入れて、温かいものを食べさせます。村の人に手を貸せと、無理は言いません」


 ヨハン村長は、しばらくわたしを見据えていた。潮風が、村長の帽子の縁を震わせる。


 シャルロッテが、わたしの隣へ出た。


「ヨハンさん。修道院は、いつでも、傷ついた人に門を開きます。これは、百年前から変わらない修道院の規則です」


「シスター——」


「ご心配なら、村の人間は関わらなくて結構です。修道院だけで受け入れます」


 ヨハン村長は、深く息を吐いた。


「……好きにしろ。だが、責任は修道院が取れ」


「取ります」


 シャルロッテが、濡れたヴェールを押さえもせず、はっきりと答えた。



 * * *



 殿下とフィンさんが、漂着者を一人ずつ修道院へ運んだ。


 殿下は敵国の人間だと分かったうえで膝をつき、相手の腕を自分の肩に回した。第二皇子がゼルギウスの兵を背負っている——いや、兵とは限らない。商船の乗組員かもしれない。背中の相手の濡れた靴が、泥を引きずっていた。


 十四人の漂着者を、修道院の大広間に並べて寝かせた。


 シャルロッテと修道院のシスターたちが、濡れた服を裂き、包帯を当てていく。折れた腕を添え木で固定し、擦り傷の砂を洗い、低体温の者には毛布を重ねた。重傷者は三人。残りは軽傷か、衰弱が主だった。


 わたしは、厨房に走った。


 大鍋を竈にかける。穀物を洗い、火が通りやすいよう手の中で砕き、シャルロッテの薬草を少量ずつ揉み入れた。体を温める薬膳粥。量は十五人分。派手な味はいらない。腹の底へ熱を届ける一杯にする。


 穀物の粒が割れ、湯気に薬草の青い匂いが混じったころ、粥が仕上がった。


 大広間へ鍋ごと運び、一人ずつ椀に盛って回った。


 漂着者たちは、最初、わたしの手元を疑うように見ていた。差し出した椀に指を伸ばしかけて、引っ込める者もいる。


 けれど、粥の湯気が顔に触れた瞬間、彼らの目の色が変わった。


 匙が椀の縁を鳴らし、粥が口へ運ばれる。


 一人、また一人と、こわばっていた肩が落ちていく。青ざめた唇に、わずかに色が戻った。


「……あたたかい」


 ゼルギウス語訛りの帝国語で、若い男が呟いた。


 礼でも賛辞でもない。ただ、「あたたかい」。


 けれど、青ざめた唇から出たその一言で、大鍋を火にかけた甲斐はあった。



 * * *



 漂着者の中に——一人だけ、場の温度から外れた人物がいた。


 布で顔の下半分を覆った、小柄な人影。衣服は他の漂着者と同じ深緑だが、腕章がない。他の漂着者たちから少し離れて座り、椀を差し出しても、膝の上の手は動かなかった。


 わたしは、その人の前にしゃがみ込んだ。


「温かい粥です。体、冷えているでしょう。飲んでください」


「……」


 返事はない。布の隙間から見える目だけが、わたしを測っていた。

 暗く、鋭い目。怯えよりも、警戒が濃い。


「嫌なら無理には言いません。でも、ここに置いておきますね」


 椀をその人の前に置き、わたしは一歩下がった。


 ネルが、わたしの耳元へ口を寄せた。


「リーゼ。あの人間——普通の船乗りじゃない」


「分かっています」


「ダークエッセンスの気配がある。微弱だが——ある」


 首の後ろが冷えた。


 ダークエッセンスの使い手が、漂着者の中に紛れている。


 殿下が、足音を殺して傍に来た。


「リーゼ。あの布の人間——」


「はい。ネルが気づきました」


「俺も気になっていた。他の漂着者とは、明らかに違う」


「どうしますか」


「今は手を出すな。だが、目を離すな。フィンには言ってある」


「分かりました」


 布の人物は、椀を手に取らなかった。


 湯気が細くなり、粥の表面に膜が張っていく。それを、じっと見つめていた。

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