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【97】嵐の前触れ

 修道院に滞在して六日目の朝、海の色が先に変わった。


 海は昨夜までの青を失い、灰を溶かしたような色でうねっている。水平線には重い雲が詰まり、海鳥たちが低く滑って、修道院の屋根にしがみつくようにとまって鳴いた。


「嵐が来ます」


 シャルロッテが、窓辺に指を置いたまま言った。


「北の嵐です。この季節にしては早い。三日は荒れます」


「三日も——」


「修道院は石造りですから、建物はもちます。ですが——」


 言い切る前に、シャルロッテの眉が曇った。


「辺境の村の漁師たちが心配です。警報が遅れれば、漁に出たまま戻れない人が出ます」


 殿下が椅子を鳴らして立ち上がった。


「フィン、村に走れ。嵐の警報を伝えろ」


「畏まりました」


 フィンさんは返事と同時に身を翻し、修道院の外へ走った。


 午後には風が強まり、修道院の窓ガラスが枠の中で軋んだ。薬草園の棚が斜めに持ち上がる。わたしとアリアは鉢と乾燥籠を室内へ抱え込み、シャルロッテとシスターたちは、渡された板を窓に押し当て、釘を打った。


 殿下は外套の裾を風に煽られながら、修道院の周囲を回って危険な箇所を確かめた。


「リーゼ。嵐の間、食料の確保は大丈夫か」


「はい。修道院の貯蔵庫に、乾し肉と穀物があります。三日分なら保ちます」


「よし」


 夕方、嵐の本体が修道院にぶつかった。


 風が唸り、海が咆哮した。白い飛沫が崖を越え、修道院の壁を叩く。雷が腹の底に響き、稲妻が海面を裂いた。


 修道院の中では、シスターたちの祈りの声と、暖炉で薪がはぜる音だけが続いていた。


 わたしは大鍋を火にかけ、全員分の温かいスープを作った。椀を両手で包むと、指のこわばりが少しずつほどける。湯気を吸い込むだけで、息の入り方が違った。


「リーゼさま、怖いです」


 アリアが、わたしの袖を掴んだ。指先が白くなっている。


「大丈夫。この修道院は百年以上、こういう嵐を受け止めてきたから」


「でも、音が……」


「音は怖いね。わたしもびっくりする。でも、壁は厚い。ここにいよう」


 わたしはアリアの頭を撫でた。



 * * *



 嵐の二日目の朝。


 フィンさんが、村から戻ってきた。外套から水が床に落ち、肩で息をしている。


「殿下。報告があります」


「何だ」


「海岸に——船が打ち上げられています」


 わたしの胸の奥が、ざらりと動いた。


「漁船ですか」


「いえ。漁船ではありません。もっと大きい。商船か、あるいは——軍船です」


「どこの船だ」


 フィンさんが濡れた前髪を払い、息をひとつ整えてから低い声で言った。


「旗に——ゼルギウスの紋章がありました」


 暖炉の火の音まで細くなった気がした。


 ゼルギウス。敵国の船だ。


「生存者は」


「十数名。海岸に漂着しています。怪我人が多い。意識のない者もいます」


「村の人間はどうしている」


「村長が受け入れを拒んでいます。『敵国の人間を助ける義理はない』と」


 殿下の目が鋭くなった。


「リーゼ」


「はい」


「どうする」


 それは命令ではなかった。殿下は、わたしの答えを待っていた。


 わたしは息を吸った。濡れた外套と潮の匂いが、喉にひっかかる。


 敵国の人間。わたしたちを追っている勢力と同じ国の人間。ハンスさんの小屋を焼いた組織と、同じ旗を掲げる人間。


 でも、今は海岸で、怪我をして、寒さに震えている。


「助けます」


 自分でも驚くほど、喉が震えなかった。


「料理人は、誰の前にも料理を出します」


 長い沈黙のあいだ、風が窓の板を殴った。殿下は頷いた。


「分かった。だが、警戒は最大に上げる」


「はい」


「フィン、武装しろ。ソフィア、防御魔法の準備を」


「畏まりました」


「了解よ」


 シャルロッテが、わたしの傍に来た。


「リーゼ。わたしも行きます。怪我人がいるなら、薬膳が要ります」


「シャルロッテ——」


「神は、すべてを救います。敵も、味方も」


 シャルロッテの目は穏やかで、それでも揺るがなかった。


 わたしたちは外套を握り締め、嵐の中へ踏み出した。海岸へ向かう道は、もう白い飛沫で濡れていた。

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