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【96】薬膳の七段

 修道院の朝は、竈に火を入れる前から薬草の匂いがした。


 シャルロッテが薬草園で鋏を鳴らす。わたしは横でローズマリーの硬い枝を受け止め、カモミールの花だけを摘み、重ならないようセージを乾燥棚へ広げた。海風が白い壁に当たって跳ね返り、青い匂いを袖の中まで押し込んでくる。


 手が空くと、彼女の薬膳講義が始まる。昼過ぎには粥鍋に向かい、煮上がった薬膳粥を修道院の老人たちの部屋へ運んだ。夕方には、わたしが帝都の料理の火加減や下拵えを見せる。「知識の交換」。ユーリアと交わした約束と、根は同じだった。


 シャルロッテの薬膳の芯にあるのは、「七段温度法」と呼ばれる手順だった。


「薬草には、それぞれ、香りと薬効がひらく温度があります」


 シャルロッテは小さな鍋を七つ、卓の上へ並べた。金属の底が、ことり、ことりと鳴る。


「カモミールやミントは冷たい水で待たせます。熱を当てると、いちばん柔らかいところが逃げてしまう。セージとタイムは四十度。指を入れたくなるくらいの湯です。ローズマリーは六十度、ショウガ根は八十度まで上げる。甘草は沸かして構いません。鉱物系の薬材は、百度を超える熱で崩します」


「その七段を、ひとつの粥の中に……」


「ええ。ただし、混ぜる順番が命です。沸かした液で米を受け止め、最後に冷水で引き出した液を落とす。逆にすれば、薬効は喧嘩を始めます」


 わたしはペンを握り、紙の端まで書きつけた。前世の薬学や食品化学に、たしかに通じる。けれどシャルロッテの言葉は、分子でも成分名でもない。修道院のシスターたちが百年、鍋の湯気と祈りの間で積み上げてきた言葉だった。


「リーゼ。あなたの知識は、わたしのものとは別の場所から、同じものを見ています」


「はい。わたしは科学の言葉で、シャルロッテは祈りの言葉で」


「でも、目を凝らしている先は——同じですね」


「同じです」


 わたしたちは顔を見合わせ、笑った。声は小さかったのに、胸の奥でよく響いた。


 同志。

 口の中で転がすと、薬草の苦みの奥に残る甘さみたいに、じんわり広がった。



 * * *



 四日目の午後、エルフリーデさまが再び目を覚ました。


 わたしとシャルロッテの作った薬膳粥を、匙の先で確かめるように口へ運び——かすれた声で、話し始めた。


「……マリアは、薬草が好きだった」


 わたしは枕元の椅子を引き寄せた。古い寝具と薬草の匂いがする。ネルもベッドの端に乗り、耳をぴんと立てている。


「マリアは、エルヴィンに出会った時には、もうこの修道院にいた。町で薬草を売る家の娘でね。ここに入ってから、薬草の知識を深めていった」


「エルヴィンは——」


「旅の途中で、ここへ辿り着いた。傷だらけで、疲れ切って……門をくぐったというより、倒れ込んできた。マリアが、看病した」


 エルフリーデさまの声は細い。けれど、言葉の輪郭は乱れなかった。


「エルヴィンは半年、ここにいた。マリアの薬膳を食べ、少しずつ体を戻した。そのあいだに、マリアへエッセンスを教えた。マリアは——覚えるのが早かったそうだ」


「マリアも、エッセンスの使い手に……」


「なった。この修道院の薬膳料理は、マリアがエルヴィンから学んだエッセンスを、薬草へ移したものだ。百年前に、生まれた技術なのだよ」


 エルフリーデさまの瞳が、わたしを捉えた。


「エルヴィンは、マリアに言った。『お前は、わしの知恵を一番よく理解してくれた人だ』と。マリアは泣いた。エルヴィンも——泣いた」


「エルフリーデさま」


「エルヴィンは、半年後に——死んだ」


 部屋の音が、そこで途切れた。


「追手が来た。帝国の魔術師団が。マリアは庇った。けれどエルヴィンの体は、もう限界だった。旅の疲れと、追われ続けた心労でね。最後は、マリアの作った薬膳粥を食べて……笑って、眠るように」


 エルフリーデさまの目尻から、涙がひとすじこぼれた。


「それから四十年、マリアはこの修道院で薬膳を作り続けた。エルヴィンに教わった技を、若いシスターたちへ渡していった。わたしは——マリアの最後の弟子だ」


「エルフリーデさま……」


「リーゼ。お前は——エルヴィンの後継者なのだな」


「はい」


「ならば、マリアの遺したものを持っていきなさい」


 エルフリーデさまは枕の下へ手を入れた。震える指が布を探り、小さな手帳を引き出す。


 茶色い革の、古い手帳だった。角は手に馴染むほど丸く、ページの端は飴色に黄ばんでいる。


「マリアの薬膳手帳。すべての薬草の配合と、エルヴィンから教わったエッセンスの応用法が、書いてある」


 わたしは両手を差し出し、手帳を受け取った。


 革の冷たさが掌に移った瞬間、涙が止まらなくなった。


「ありがとうございます」


「マリアに代わって——礼を言う」


 エルフリーデさまは息を整え、目を閉じた。


 ネルが枕元へ近づく。小さな前足を、エルフリーデさまの手に重ねた。


「エルフリーデ」


「使い魔さん」


「……主に代わって、礼を。マリアを——愛してくれて」


 エルフリーデさまの唇が、かすかに動いた。


「マリアも——エルヴィンを、最後まで——愛していた」


 海風が部屋へ流れ込み、手帳の古い革をそっと冷やした。

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