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【100】美味しい、と涙

 嵐が抜けた朝、修道院の窓枠いっぱいに青空が戻っていた。


 海はまだ白く泡立っている。風だけはおとなしくなり、陽光が白い壁を叩くたび、修道院は潮を払ったみたいに明るかった。


 漂着者たちの体調は、ほとんど戻っていた。軽傷者は毛布を押しのけて自分の足で歩き、重傷者も目を開け、声をかけると返事をした。


 ヨハン村長が、眉間に皺を寄せて修道院へやってきた。


「漂着者の処遇を決めねばならん。帝国法では、敵国の者が流れ着いた場合、拘束して帝都へ送ることになっている」


「分かりました」


 殿下は短くうなずいた。ここでは身分を明かしていない。それでも、あとで帝都の正式な手続きに渡せるよう、言葉を削っているのが分かった。


「送還までの間、修道院で預かります」


「シスターに迷惑が——」


「迷惑ではありません」


 シャルロッテが胸の前で手を組み、村長の言葉を受け止めた。声は柔らかいのに、扉の閂みたいに動かなかった。


「神の家に、迷惑な客はいません」



 * * *



 昼食。


 鍋底に残っていた昨夜の魚介鍋を火にかけ直し、灰汁をすくい、新しいパンを籠に積んだ。湯気の立つ食事を、漂着者たちの前へ運ぶ。


 最初は皿を睨んでいた彼らも、今は匙を止めない。若い船員の一人が、パンをちぎって口に押し込み、湯気の向こうでぼそりと漏らした。


「うちの国では……こんな柔らかいパンは食えねえ」


「ゼルギウスでは、パンは違うんですか?」


「硬い。黒い。不味い。でも、それが普通だと思ってた」


 彼は噛み切ったパンを見下ろした。指先についた白い粉を、不思議そうに親指でこすっている。


「ここの飯は……なんで、こんなに、うまいんだ」


 わたしは鍋の柄を握り直した。


「ちゃんと作ったからです」


「ちゃんと……?」


「大げさなことではありません。魚の臭みを抜いて、パンを乾かさず、熱いものを熱いうちに出す。食べる人が飲みこみやすいように、手を抜かないだけです」


 若い船員は、パンをもう一口かじった。奥歯で噛んだまま黙り込み、皿に落ちたパンくずをじっと見ていた。



 * * *



 午後、わたしは布の人物のもとへ膳を運んだ。


 大広間の隅。壁に背を預けて、その人物はまだ座っていた。他の漂着者たちとは距離を置き、顔の下半分は相変わらず布の陰に隠れている。それでも昨夜から、わたしが近づいても肩を跳ねさせなくなった。


「お昼ですよ」


 膳には温かいスープを置き、パンを脇に、漬物の小皿を添えた。


 布の人物は、布の奥から視線だけを上げた。


 そして、両手で膳を受け取った。


 昨日までのためらいは、なかった。


 布をわずかにずらし、スープを口に含む。


 ……食べている。


 わたしは邪魔にならない距離で膝を折り、向かいに座った。


「お名前、聞いてもいいですか?」


「……」


「無理にとは言いません。ただ——」


 わたしは、声を落とした。


「名無しのままでも料理は出せます。でも、名前を知っていると、椀を置く手つきが少し変わるんです。塩の加減を考える時、その人の顔を思い浮かべられるから」


 匙が椀の縁で止まった。湯気だけが、布の前を薄く流れていく。


 布の人物が、かすれた声で言った。


「……名前は、言えない」


「分かりました」


「だが——」


 布の隙間から見える目が、わたしを見た。


「昨夜の鍋は——」


「はい」


「今まで食べた、何より——」


 声の端が震えた。


「美味しかった」


 わたしは、息を呑んだ。


 美味しい。


 その一語で、殿下が初めて「美味しい」と言った時の喉の熱さまで戻ってきた。あの時も、わたしは泣いた。


「ありがとうございます」


「何故だ」


 布の下で、言葉が低く沈んだ。


「何故、わたしに——料理を出す。わたしは、お前の——」


「敵ですか」


「……」


「分かっています。あなたが何者か、わたしの仲間は気づいています」


 布の人物の背筋が固まった。膳の端に指が食い込む。


「それでも、わたしは料理人です。目の前で腹を空かせている人に、温かいものを出す。敵か味方かは、そのあとに考えます」


「……」


「あなたが美味しいと言ってくれました。だったら、わたしの手は間違っていません」


 布の人物は、うつむいた。


 肩が震えた。


 そして、布の奥から嗚咽が漏れた。


 泣いていた。


 歯を食いしばるみたいに声を押し殺して、それでも喉がひくりと鳴った。


 わたしは鍋まで戻り、椀にスープをもう一杯注いだ。湯気で目の前がにじむ。何も言わず、布の人物の前に置く。


 布の人物は、震える手で匙を取った。

 涙を流しながら、スープを飲んだ。


 わたしの頬にも、いつのまにか涙が落ちていた。


 大広間の隅で、湯気の向こうに涙が落ちていく。

 敵国の人間と、帝国の料理人。間にあるのは、椀一つぶんの距離だけだった。


 ネルが、わたしの肩で目を閉じていた。


 何も言わず、小さな重みだけを預けていた。

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