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【94】海が見える丘

 山の北斜面に足を入れた途端、風が変わった。


 乾いた針葉樹の匂いが薄れ、湿り気が頬にまとわりつく。舌先に、かすかな塩が乗った。


「海だ」


 殿下が足を止める。


 木々の隙間が揺れて、その奥に青が差した。


 山裾の向こう、白い崖が横に長く続いている。さらに先で、海が鈍く光っていた。ハーフェンシュタットで見た南の海とは違う。冷たく暗い北の海だ。高い波が崖に噛みつき、白い飛沫を弾いている。


「リーゼさま! 海ですよ!」


 アリアが坂を駆けだした。


「アリア、転ぶから——」


 言い終わらないうちに、靴底がずるりと鳴った。アリアは両手をついて座り込み、膝小僧を押さえる。


「痛い……」


「だから言ったのに。見せて」


 わたしは土を払い、擦りむけた膝に薬草の絆創膏を貼った。泣くほどではないけれど、アリアの鼻が赤い。その頭越しに海を見る。


 崖の中腹に、白い建物があった。


 石造りの、質素で堅い建物だ。十字の風見鶏が屋根の上で軋み、白く塗られた壁は海風に削られて角が丸い。小さな畑と薬草園が、崖にしがみつくように広がっていた。


「あれが——修道院ですか」


「そうだろう」


 殿下は目を細め、風に乱れた前髪を指で押さえた。


「リーゼ。修道院に着いたら、シャルロッテに会え。ハンスさんの名前を出せば、門前払いはされないだろう」


「はい」


「だが、警戒は緩めるな。ハンスさんが言っていた。修道院の周辺にも、影がある」


「分かっています」


 肩の上で、ネルがかすかに震えた。爪が布を小さくつかむ。


 百年ぶりに、この場所へ来る。

 エルヴィンが死んだ場所。

 ネルが、百年間、来られなかった場所。


 わたしは指の腹で、ネルの背中を撫でた。


「ネル。一緒だよ」


「ああ」


 返事は小さい。けれど、昨夜ほど硬くはなかった。



 * * *



 修道院へ向かう道は、崖沿いに刻まれた細い石段だった。


 潮を含んだ風が、横からぶつかってくる。外套の裾がはためき、膝に絡んだ。


「飛ばされそう!」


 アリアが叫んで、わたしの外套を掴む。殿下が無言で風上側に回り、肩で風を受けた。


 石段を登りきった先に、修道院の門があった。


 木と鉄で組まれた古い門だ。蝶番には苔が入り込み、横の小さな鐘だけが磨かれて光っている。


 わたしは紐を引いた。


 澄んだ音が一つ、海鳴りに混ざる。


 しばらくして、内側で足音が近づいた。重い木の扉が、きしみながら開く。


 立っていたのは、若い女性だった。


 白い頭巾と修道服。背が高く、目元は穏やかだが、海風に負けない芯がある。口元には微笑み。二十代後半だろう。大きな手の指先は荒れて、爪の端に薬草の色がわずかに残っていた。薬草をすり潰す人の手だ。


「いらっしゃいませ。修道院へようこそ」


 柔らかい声だった。風にさらわれず、まっすぐ耳に届く。


「シャルロッテさま、ですか?」


「はい。シスター・シャルロッテです。あなたは……」


「リーゼ・ヴァイスフェルトと申します。山の猟師ハンスさんと、草原のユーリア族長からの紹介で参りました」


 シャルロッテさまのまぶたが、わずかに上がった。


「ハンスさんのお名前を、ここで聞くとは」


「お知り合いなんですね」


「毎年、薬草をお届けしています。先月も伺う予定でした。……山で、何かあったのですか」


「はい。燻製小屋が、放火されました」


 シャルロッテさまの微笑みが消えた。


「やはり……」


「やはり?」


「こちらの修道院にも、最近、不穏な気配があります。お話を聞かせていただけますか」


 シャルロッテさまは門を大きく開け、潮で固くなった扉を手で押さえた。


「どうぞ、中へ。旅のお疲れでしょう。温かいお茶と、食事を用意しますね」


 わたしは修道院の門をくぐった。


 中庭に、薬草が植えられていた。


 きちんと並んでいるのに、庭は冷たくない。ローズマリーの硬い葉に指が触れれば香りが立ちそうで、タイムは石の縁からはみ出し、セージの白い葉は潮風に耐えるように厚い。低いところでカモミールが揺れ、見たことのない葉もあちこちに混じっている。


 その上を、海鳥が斜めに切って飛んだ。


 潮と薬草の匂いが、鼻の奥で重なる。


 わたしは胸いっぱいに吸い込んだ。


 薬湯だけではない。台所で火にかければ、きっと料理になる匂いだ。

 祈りと薬膳が、同じ鍋で煮える場所。



 * * *



 修道院の食堂に通された。


 木のテーブルは長く、椅子には何度も磨かれた艶があった。壁には聖人の絵。窓の向こうで、海が白く砕けている。


 シャルロッテさまは自ら茶を淹れた。乾かした薬草を指でほぐし、湯を注ぐ。湯気にカモミールの甘さとミントの青い匂いが立つ。


「この茶は——」


「修道院の畑で育てた薬草です。体を温めます。旅の疲れにもよく効きますよ」


 わたしは一口含んだ。


 温かさが舌から喉へ落ち、胃のあたりでほどけた。こわばっていた指先まで、血が戻っていく。


「シャルロッテさま。このお茶、エッセンスが——」


「気づきましたか」


 シャルロッテさまは茶器を置き、にこりと笑った。


「わたしも、エッセンスを使えます。意識して」


 息が詰まった。


 港のロレンツォさんも、草原のユーリアも、山のハンスさんも、使ってはいた。けれど全員、無意識だった。


 シャルロッテさまは違う。


 わたし以外で、初めて出会った、意識的なエッセンス使い。


「シャルロッテさま、あなたは——」


「この場で一息に話すには、長くなります」


 シャルロッテさまが立ち上がった。


「お食事を先に。旅のあとは体が資本です。お話は、温かいものを召し上がってから」


 わたしは湯気の残る茶碗を両手で包み、頷いた。


 窓の外では、北の海が荒く光っていた。

 波音に、まだ聞いていない話の気配が混じっている。

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