【93】石の祠の夜
ハンスさんに教わった古い杉は、尾根をひとつ越えた先の斜面で、夕風を受けて立っていた。
幹は、三人で手を繋いでも回り切れないほど太い。張り出した根の陰に、苔をかぶった石の祠がある。中は窮屈だけれど、六人で肩を寄せれば眠れるだけの空間はあった。
「ここで一晩過ごしましょう」
西の稜線に日がかかっていた。山の日暮れは早い。
殿下とフィンさんが枯れ枝を集めて火を起こし、わたしは荷をほどいて夕食にかかった。乾し肉を裂き、茸の土を払って鍋に落とす。鍋は一つしかない。全員分を、まとめて煮た。
石の祠の中に湯気が満ちる。乾し肉の塩気と茸の香りが、冷えた岩肌へしみていった。
「リーゼさま、外、すごいです」
アリアが祠の入口から顔を出し、手招きした。
外へ出てみると、空いっぱいに星が散っていた。
帝都では見られない空だった。草原で見た夜よりも、星が近い。高い場所まで来たせいか、息を吸うたび胸が冷えて、光だけがまっすぐ目に入ってくる。
「綺麗……」
「本当に、綺麗だな」
殿下が、わたしの隣に来ていた。
二人で、しばらく星を見上げた。
「殿下」
「何だ」
「明日、修道院に着きます」
「ああ」
「エルヴィンが死んだ場所です。ネルが——百年、行けなかった場所です」
「ああ」
「ネルのこと、見守ってあげてください」
殿下が、わたしを見た。
「お前は、ネルのことを心配しているのか」
「はい。ネルは百年、エルヴィンの死を受け入れられずにいたのかもしれません。修道院で——何かが起きるかもしれません」
「分かった。俺は、お前とネルの傍にいる」
「ありがとうございます」
殿下は短く頷き、祠へ戻っていった。
わたしはその場に残った。
肩のネルは目を閉じている。眠っているのか、起きているのか分からない。ただ、肩先に触れる小さな体が、かすかに震えていた。
「ネル」
「何だ」
「明日——一緒に、行こうね」
「……ああ」
返ってきた声は、夜気に紛れるほど小さかった。
星は音もなく光っていた。
* * *
夜半、ふっと目が覚めた。
石の祠の中で、皆が眠っている。殿下は入口に近い位置で、半身を起こしたままだった。護衛の姿勢を、眠っていても崩していない。
ネルが、わたしの胸の上で目を開けていた。
「ネル、起きてたの」
「眠れんかった」
「……」
「リーゼ」
「はい」
「エルヴィンのことを……少し、話してもいいか」
わたしは返事の代わりに頷いた。
ネルは、低い声で話し始めた。
「あの男は——変わった人間だった」
「変わった、ですか」
「この世界の誰よりも、食材を愛しておった。食材の声を聞く、と言っておった。マルタばあさんやロレンツォ、ユーリアがやっていることと同じだ」
「はい」
「だが、あの男は——それを学問にしようとした。感覚だけで済ませず、言葉にして、筋道を立て、誰でも使える技術にしようとした」
ネルが、一度目を伏せた。
「それが——帝国の怒りを買った。魔術師階級にとって、エッセンスは脅威だった。魔力を使わずに食材の力を引き出す技術は、魔術師だけが特別だという看板に傷をつける」
「だから——禁忌にされた」
「ああ。エッセンスは禁忌の魔法とされ、エルヴィンは追放された。最後の旅は、逃亡の旅でもあった」
ネルが、細く息を吐いた。
「あの男は旅の途中で、各地に種を蒔いた。魚醤の仕込みは、ロレンツォの曾祖父の手に残った。ユーリアの族のもとでは、今度はあの男が馬乳酒を学ぶ側に回った。ハンスの祖父と山を歩いた足跡もある。だが——」
「だが?」
「追手が近づいていた。帝国の魔術師団が、あの男を追っていた」
「……ネル」
「修道院に辿り着いた時——あの男は、もう、限界だった」
ネルの声の端が震えた。
「わしは——あの男の傍で、最後の夜を過ごした。あの男は、わしに言った。『お前は、ここに残れ。いつか、わしの後継者が来る。その者に、すべてを教えてくれ』」
「ネル……」
「わしは嫌だと言った。お前と一緒に死ぬ、と言った」
ネルの翡翠の目から、光の粒がこぼれた。
「あの男は笑って言った。『お前には、まだ、仕事がある。待つのが、お前の仕事だ』」
わたしは、ネルを両手で包むように抱きしめた。
「ネル。百年、待ってくれたんだね」
「ああ」
「わたしが来たよ」
「ああ」
「もう、一人じゃないよ」
ネルが、わたしの胸で震えた。
翡翠の目から、光の粒が次々にこぼれる。
石の祠の天窓から、星の光が細く落ちていた。




