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【88】病んだ熊

 滞在五日目の朝、山の空気が変わった。


 罠の巡回から戻ったハンスさんは、戸口で外套についた霜を払うのもそこそこに、濡れた手袋を握ったままテーブルへ来た。眉間の皺が深い。


「北の斜面で、熊の足跡を見つけた」


「熊——」


「ただの熊じゃない。足跡が乱れている。まっすぐ歩けておらん。右前脚を庇って、木の根を避けるたびに蛇行していた」


 ハンスさんは地図を広げ、指の節で北側の斜面を叩いた。紙の上に、乾いた土が一粒落ちる。


「怪我か、病気か。どちらにせよ、まともな熊じゃない。病んだ熊は読みが利かん。腹が空けば、人里へ下りる。人も襲う」


 殿下の返事は早かった。


「追うか」


「追う。放っておけば、こっちに来る」


「俺が同行する」


「あんたの剣は役に立つ。だが、山の獣に慣れていないなら——」


「指示に従う」


 ハンスさんは殿下をじっと見た。値踏みというより、命を預ける相手かを確かめる目だった。


「……いいだろう。リーゼ。お前も来い」


「わたしも?」


「熊が病んでいるなら、原因を見たい。お前の鼻と目が要る」


 ネルが肩の上で耳をぴんと立てた。爪が服地をつかむ。


「何を察している、ハンスよ」


「この山で獣が病むのは、珍しくはない。だが今年は多すぎる。鹿も、狐も、様子がおかしかった。今度は熊だ。何かが山の腹を齧っている」


 ハンスさんの目が、火の消えた炭みたいに沈んだ。


「親父の時代にも、こんなことはなかった」



 * * *



 わたしたちは三人で山へ入った。先頭はハンスさん。わたしが中に入り、殿下が背後を固める。ネルはわたしの肩で、左右の木立へ耳を振り続けていた。


 ソフィアさまとフィンさんとアリアは小屋に残した。フィンさんが外を見張り、ソフィアさまはいつでも防御魔法を張れるよう暖炉のそばで待機している。


 北の斜面は日が届かない。霜は踏むたび白く砕け、湿った土の匂いが靴底から上がった。木々は暗く寄り合い、枝が視界を細く切る。倒木を越えるたび、膝が冷たい幹に触れた。


 ハンスさんは何度も足を止めた。しゃがんで土を指で払う。折れた小枝を拾い、鼻先へ寄せ、すぐ捨てる。足跡を追う背中は、言葉よりずっと静かだった。


「近いな」


「どれくらいですか」


「百メートル以内。風下だ。こっちの匂いは、まだ届いていない」


 殿下が音を殺して剣を抜いた。刃が鈍く光り、冷えた空気を一枚削ったように見えた。


「リーゼ、俺の後ろにいろ」


「はい」


 ハンスさんの手が上がった。


 前方、五十メートルほど先。岩陰の黒い塊が、浅く上下していた。


 熊だ。


 体長は二メートルを超えている。黒い毛皮は艶を失い、斑に抜け、濡れた布のように身体へ張りついていた。右前脚だけが不自然に腫れ上がり、呼吸のたび喉の奥で湿った音が鳴る。


 わたしは息を止めた。


 熊の体から、何かが滲んでいる。目には見えない。けれど鼻が先に拒んだ。獣の脂と湿った毛——その奥に、甘く腐った果実を煮詰めたような匂いが混じっていた。


「ハンスさん。この匂い——」


「分かるか」


「普通の病気じゃありません。魔力に似ています。でも……魔力を、ねじって腐らせたような」


 ネルが、肩の上で毛を逆立てた。


「……ダークエッセンス」


「ネル?」


「微弱だが、間違いない。あの熊はダークエッセンスに触れている。自然の魔力が汚されておる」


 背中の内側が冷えた。


 ダークエッセンス。

 旅の途中、エレナから聞かされた言葉だ。敵国ゼルギウスが研究しているという、エッセンスの闇の変異体。食材を支配し、兵器に変える力。


 それが、この山にまで及んでいる?


「ハンスさん。この山で最近、見慣れない人間を見ませんでしたか」


「二ヶ月前だ。北から来た商人を名乗る三人組がいた。山を通るだけだと言ったくせに、燻製小屋の近くを妙に嗅ぎ回っていた」


「赤い蝋印章は——」


「知らん。だが、あの三人が通ってからだ。獣がおかしくなったのは」


 殿下は剣先を熊へ向けたまま、低く言った。


「ゼルギウスの先遣隊だ。ユーリアが言っていた追っ手と、同一か、少なくとも繋がっている」


「殿下——」


「リーゼ。この熊をどうする」


 わたしは、熊を見た。


 右前脚の皮膚が内側から押し上げられている。血走った目は焦点を結ばず、開いた口から涎が糸を引いた。喉がひゅうひゅう鳴り、瞬きだけが乱れている。苦しんでいた。


 可哀想だった。

 でも、放っておけば人を襲う。


「楽にしてやるしかない、です」


 ハンスさんが弓を構えた。弦が、きり、と鳴る。


「急所を射れば一瞬だ。苦しまん」


 殿下が頷いた。


「ハンス、射て。外したら俺が止める」


 ハンスさんは弓を引き絞った。肩も肘も揺れない。


 枝の鳴る音まで途切れた。


 矢が放たれた。


 矢羽根が短く震え、熊の首筋へ吸い込まれる。正確に急所を射抜かれた熊は、一度だけ大きく痙攣した。


 それきり、動かなかった。


 わたしは目を閉じた。


「リーゼ」


 ハンスさんの声がした。


「この肉は食えん。汚染されている。だが——」


「調べます」


 わたしは熊の傍に近づいた。靴が落ち葉を踏む音まで大きく聞こえる。右前脚の腫れの前で膝をつき、息を浅くして皮膚を観察した。


 腫れの中心に、赤黒い紋様が浮いていた。自然にできた傷ではない。肉の下から、焼き印だけが浮き上がってきたようだった。


 ネルがわたしの肩から飛び降り、紋様の手前でぴたりと止まる。


「リーゼ。これは——ダークエッセンスの痕跡だ。人為的に植え付けられている」


「人為的——」


「誰かが、この山にダークエッセンスの種を蒔いておる。獣を実験台にしてな」


 握った拳が震えた。爪が手のひらに食い込む。


 食材を敬うのではなく、支配する力。

 エッセンスの、歪んだ鏡像。


「ハンスさん」


「何だ」


「この山は——狙われています」


 ハンスさんの目に、暗い光が戻った。


「分かっている」


「ハンスさんの燻製小屋も——」


「分かっている」


 ハンスさんは熊の遺体の傍に膝をついた。厚い手を合わせ、汚れた指を額の前へ持ち上げる。


「山の掟だ。取った命には礼を言う。たとえ、食えない肉でも」


 わたしも手を合わせた。


 殿下も、剣を下ろし、静かに頭を下げた。

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