【87】煙の哲学
燻製は、大きな火を扱う仕事だと思っていた。
実際に仕込みを始めると、思っていたより、ずっと指先の仕事だった。
火床の脇には、ブナとナラ、サクラに似た山桃が積まれている。ターネンバウムの樹脂は欠けた小皿に固めてあり、白樺の細枝と乾燥ハーブの束だけは、湿気を避けて梁から吊るされていた。
ハンスさんは、それらを肉に合わせて替える。
「ブナは万能だ。たいていの肉を受け止める。だが、深みが足りん」
火床の前にしゃがんだハンスさんは、薪を一本つかみ、手のひらで割った。ぱき、と乾いた音がして、裂けた繊維から青い匂いが立つ。彼はそれを鼻先に寄せ、親指で年輪を撫でた。
「ナラは強い。猪みたいに脂のある肉に使え。煙が脂をつかまえる」
「サクラの木は?」
「鳥だな。鳥肉は線が細い。甘い煙のほうがいい。それと——特別な時に使うのが、ターネンバウムの樹脂だ」
「昨日嗅いだ、あの甘い香りの……」
「そうだ。樹脂をそのまま燃やすなよ。煙が出すぎて苦くなる。ブナの薪に薄く塗って、薪ごと燻す。そうすると、ブナの煙の中に、樹脂の甘みだけが乗る。舌に残るか残らんか、そのくらいでいい」
わたしはノートを押さえ、鉛筆を走らせた。紙の端が煙の湿りで丸まっている。
前世の知識が、頭の奥でぱちりと火をつける。
フェノール類、カルボニル化合物、有機酸。煙の中の成分がタンパク質に絡み、肉の表面に香りと色を残す。薪が違えば、煙の中身も違う。だから味が変わる。
ハンスさんは、その名前を知らない。
けれど薪を、肉の脂、火の強さ、天気の湿り気に合わせて迷わず選ぶ。父から受け継いだ鼻と手が、前世の教科書の向こう側を歩いていた。
「ハンスさん。薪を選ぶ時、何を見ていますか」
「鼻だ」
「鼻、ですか」
「薪を持つ。嗅ぐ。煙になった時の味が、そこで分かる」
「薪の時点で?」
「長くやってりゃな」
ハンスさんは一本のブナを取り、こちらへ突き出した。
「嗅いでみろ」
わたしは両手で受け取った。見た目より軽い。割れ目に鼻を近づけると、乾いた木の匂いの奥に、樹液の甘さが細く残っていた。
「……甘いです。かすかに」
「それが煙になると、どうなる」
「甘みが膨らんで……でも、苦味に変わる手前で止まる、でしょうか」
「正解だ」
ハンスさんの目元がゆるんだ。
「お前、飲み込みが早いな」
「ありがとうございます」
「だがな、頭で分かるのと、手で分かるのは別だ。明日から実際に燻す。火の面倒はお前が見ろ」
「はい」
* * *
午後、ハンスさんと山を歩いた。
罠を見回り、使えるものを拾う。斜面は遠目にはただの緑なのに、足を踏み入れると食材の気配だらけだった。
倒木の陰に茸。水の筋に山菜。枝をかき分けると木の実が転がり、薬草の苦い匂いに混じって、どこかから野生の蜂蜜の甘さまで流れてくる。
ハンスさんは立ち止まるたび、膝を折り、葉を裏返し、根元の土を爪で払って教えてくれた。
「これはフォルストピルツ。毒だ。絶対に食うな」
「はい」
「隣のやつは食える。見た目は似ているが、傘の裏を見ろ。毒は白、食えるほうは黄色だ」
「覚えました」
「覚えたか。なら、あそこの茸を見ろ。食えるか、食えないか」
ハンスさんが、十メートル先の木の根元を顎で示した。
わたしは土を崩さないように近づき、しゃがみ込む。傘の丸み、縁の色、裏のひだ。指で触れたいのをこらえ、目で確かめた。
「食べられます。ひだが黄色です」
「正解。だが、まだだ」
「まだ?」
「匂いを見ろ。食える茸は土の匂いがする。毒のやつは、やけに甘ったるい」
鼻を近づける。湿った腐葉土、朽ちた枝、土そのものの匂いが、丸ごと胸に入ってきた。
「土の匂いです」
「よし。取れ」
わたしは根元を傷つけないように摘み取った。小さな茸が手のひらに乗る。まだ山の冷たさを持っていた。
「山は与えてくれるが、奪えば返す」
横を歩きながら、ハンスさんが言った。
「茸を取ったら、その場所に胞子を散らしておけ。来年、同じ場所から生える」
「持続可能な採取——」
「なんだ、その言葉は」
「あ、前世の……すみません。山から取った分を、山に返す、という意味です」
「ふん。それを、わしは『山の掟』と呼んでいる」
ハンスさんは別の茸を摘み、その傘を指で弾いた。粉のような胞子が風にほどけ、枯れ葉の上へ落ちていく。
「父がそうしていた。父の父も。山と人が、共に生きるための約束だ」
わたしは頷いた。返事はすぐには出なかった。
港で教わった「海に返す」が、草原の「乳に話しかける」と、ここでつながった。
名前は違う。けれど手を出しすぎるな、次の季節を残せ、という感覚は同じだ。前世の教科書なら難しい横文字でまとめてしまうところを、この世界の人たちは、手の動きで覚えている。
ハンスさんの指先から散った胞子が、土に沈んだ。そちらのほうが、ずっと確かに見えた。
* * *
夕方、小屋に戻ると、殿下が暖炉の前で薪を割っていた。
上着は脱いである。白いシャツの袖を肘までまくり、斧を振り下ろすたび、肩から背中へ筋肉が動いた。一撃。薪がまっすぐ割れ、乾いた音が壁に跳ねる。正確で、無駄がない。
「殿下」
「戻ったか」
殿下は斧を置き、手の甲で額の汗を拭った。
「ハンスさんに頼まれた。薪が足りなくなるから、補充しておけと」
「殿下が薪割りを……」
「何だ」
「いえ。あの——」
宮廷の人間が見たら、きっと腰を抜かす。
第二皇子カイゼル・フォン・アステリアが、山小屋で薪を割っている。港では魚の荷物を運び、草原では馬の世話を覚え、山では斧を握る。
旅を重ねるたびに、殿下は遠い玉座の人ではなくなっていく。
「殿下、楽しそうですね」
「楽しくはない」
「嘘です。顔に出ています」
殿下はふいと視線を逸らした。耳の先が赤い。
「リーゼ」
「はい」
「今日の山は、どうだった」
「すごかったです。ハンスさんの知恵は、港や草原とは全然違って……保存食の哲学が深くて、まだ追いつけません」
「追いつく」
殿下は薪を暖炉にくべた。炎が新しい木肌に噛みつき、ぱち、と小さく爆ぜる。
「お前は、いつも追いつく。しかも、あっという間に」
「殿下——」
「俺が保証する」
低い声だった。火の音に紛れそうなのに、芯だけは揺れない。
指先に残っていた山の冷たさが、少しだけほどけた。
「ありがとうございます」
「飯は何だ。今夜」
「茸のスープと、兎肉の燻製焼きです」
「楽しみにしている」
殿下が笑った。
小さくて、不器用で、それでも隠しようのない笑顔だった。
旅を始めた頃なら、見逃していたかもしれない。今は、暖炉の火に照らされたそのわずかな変化まで、拾ってしまう。




