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【86】山の掟

 ハンスさんの山小屋で始まった暮らしは、港とも草原とも、肌ざわりからして違っていた。


 港には漁師たちの怒鳴り声と潮の匂いがあった。草原には、ユーリアたちの笑い声と乳の甘い湯気があった。ここにあるのは、ハンスさんの背中と、薪のはぜる音と、息を詰めるような沈黙だった。


 朝は夜明け前に起きる。ハンスさんは火掻き棒で灰を寄せ、薪を押し込み、凍った桶を片手に外へ出た。雪解け水を汲み、斜面の罠を見に行き、獲物があれば腰の袋へ収める。迷う暇もない足取りだった。わたしたちは靴底を雪に取られながら、その跡を追う。


 最初の三日間、ハンスさんはほとんど口を開かなかった。


 朝の巡回で枝を払いのける時も、昼に燻製小屋の煙を見に行く時も、夜、暖炉の前で肉を炙る時も。手を止めず、目も上げず、説明らしい説明はない。


 四日目の朝、わたしは意を決して聞いた。


「ハンスさん。何か、お手伝いできることはありますか」


「……罠の回収、来るか」


「はい」


 返事を聞くなり、ハンスさんは戸口の鉈を腰に差して歩き出した。わたしは慌てて手袋をはめ、固い雪を蹴りながら後を追った。


 山の朝は、頬を針で突くみたいに冷たい。吐いた息はすぐ白くほどけ、手袋の中の指までじんじんした。それでも木々の隙間から差す朝日が霜を金色に焼き、枝先で小さく光る。その景色は——前世の記憶の中のどの朝よりも、美しかった。


 最初の罠に、兎がかかっていた。


 ハンスさんは膝を折り、針金を緩めた。兎の体を抱え上げる。次の瞬間、首をひねった。音は短く、手つきは迷わない。苦しませないための速さだった。


 喉の奥がきゅっと縮む。思わず目を背けかけて、睫毛の手前で止めた。

 料理人なら、食材の命が終わる場所から、逃げてはいけない。


「ハンスさん、その兎は——」


「今夜の飯だ」


「……はい」


「お前、肉を捌けるか」


「魚は捌けます。獣肉は——経験が浅いです」


「なら、教える。兎は小さい。練習にちょうどいい」


 ハンスさんが初めて、ひとかたまりの言葉をくれた。


 わたしは頷いた。



 * * *



 小屋に戻り、ハンスさんから兎の解体を教わった。


 毛皮に刃を入れすぎないこと。腹を開く時は、内臓の張りを指先で確かめること。ロレンツォさんに教わった魚の技法と、理屈は似ている。けれど手に返る感触はまったく違った。魚は冷たく滑り、押すと逃げる。獣肉は温みを残し、弾んで、刃を押し返してくる。


「力を入れすぎだ」


 ハンスさんが、わたしの手元を見ていた。


「ナイフは、肉に任せろ。繊維が刃を連れていく。お前が切るんじゃない。肉が切れたがる場所を探せ」


「肉が、切れたがる場所……」


 わたしは握りしめていた指をほどき、ナイフの角度を変えた。押すのではなく、刃先を肉の筋に沿わせる。


 すると——するり、と抵抗が消えた。肉がきれいに分かれる。


「……!」


「そうだ」


 ハンスさんが、小さく頷いた。


「山の食材は、自分から開く。無理に開かせるな」


 その言葉が、ナイフを持つ手の内側に沈んだ。


 ロレンツォさんは「手で覚えろ」と言った。

 ユーリアは「乳と話せ」と言った。

 ハンスさんは「肉に任せろ」と言う。


 乱暴なくらい言い方は違う。けれど指先の奥で、同じところに触れていた。

 相手の声を聞け。こちらの都合でねじ伏せるな。


 エッセンスという言葉の底に、またひとつ、手触りが増えた。



 * * *



 昼食は、解体した兎肉のスープを、わたしが作った。


 鍋にハンスさんの燻製肉の端切れを落とし、山の湧水を注ぐ。火を細くして、兎肉を沈めた。水が澄みすぎているせいか、煙の塩気も、肉の甘みも、舌にまっすぐ届きそうだった。仕上げに棚の乾燥ハーブをひとつまみ、指で揉んで散らす。


 湯気の立つ椀を、皆で木のテーブルに寄せて食べた。


 ハンスさんは黙ってスープを飲み干した。空になった椀を、ことりと置く。


「悪くない」


 言葉は、それで終わった。


 けれど、隣で殿下が声を落とした。


「リーゼ。あの男の『悪くない』は、最上級の褒め言葉だ」


「え?」


「ああいう男は、本当に不味い時は何も言わない。『悪くない』と言った時は——かなり、気に入っている」


 殿下は、椀の縁に口をつけたまま、少しだけ目を細めていた。

 ……かつての殿下も、たぶん、こういう褒め方しか知らなかった。



 * * *



 午後、ハンスさんが初めて、燻製小屋の中に、わたしを入れてくれた。


 燻製小屋は山小屋の裏手にあった。石を積んだ小さな建物で、扉を開けた途端、煙と脂と古い木の匂いが鼻を刺す。天井は低く、壁は煤で黒い。中央の火床では、赤い炭が息をしていた。その上に吊り棚が重なっている。


 棚には、燻される時間の違う肉が吊り下げられていた。


 手前の肉はまだ生の色を残し、脂がやわらかく光っている。奥へ行くほど赤茶に沈み、さらに向こうでは深い茶色へ変わる。いちばん奥、梁に近い場所には、半年以上煙を浴びたという肉があった。ほとんど黒く、石みたいに硬そうだった。


 時間が、棚の奥へ向かって層になっている。


 そして——わたしの目には、もうひとつ混じって見えた。


 古い肉ほど、光が強い。

 半年以上燻された肉の表面に、金色の光が薄く宿っている。煙の膜の下で、確かに。


「ハンスさん」


「何だ」


「あの奥の肉、光っています」


 ハンスさんが、振り返った。


 煙だけが、しばらく揺れた。


「……お前にも、見えるのか」


「はい」


「ユーリアも、そう言っていたな」


 ハンスさんは、燻製肉を見上げた。


「親父も——同じことを言っていた。『長く燻した肉は、光る』と。わしは見えんが、親父には見えていた」


「お父さまは——」


「十年前に死んだ。雪崩で」


 ハンスさんの声は平らだった。凍った地面を踏むみたいに、もう沈まない声だった。


「親父は、この小屋を建てた男だ。燻製も親父から教わった。親父は——そのまた親父から習った。三代だ」


 三代。

 ロレンツォさんは四代。

 ユーリアも、母から祖母から。


 どこへ行っても、技は手から手へ渡っている。言葉より先に、傷や匂いや癖ごと受け継がれている。


「ハンスさん。お父さまの燻製の技を——わたしに、教えてくださいますか」


 ハンスさんは、長いこと、わたしの目を見ていた。


「お前、何者だ」


「料理人です」


「それだけか」


「それだけです」


「ふん」


 ハンスさんは燻製小屋の壁に手をついた。煤が手のひらに移る。その黒さを、じっと見下ろした。


「親父がな。死ぬ前に、一つだけ、遺言を残した」


「遺言……」


「『いつか、エッセンスの使い手が来る。その者に、すべてを教えろ』」


 息が、喉の途中で止まった。


 ロレンツォさんの曾祖父も、バルダックさまも、同じようなことを言っていた。

 エルヴィンが——百年前に、あちこちへ種を蒔いていた。


「お前が、その使い手か」


「はい。たぶん」


「たぶん、じゃ困る」


 ハンスさんが、珍しく、口角を上げた。

 笑ったのだと、こちらが気づくまでに一拍かかった。


「明日から、教える。山の燻製。保存食。親父から受け継いだ、すべてを」


「ありがとうございます」


「礼はいい。作業で返せ」


 ハンスさんは背を向け、小屋の奥へ戻っていった。吊るされた肉が、彼の肩先でかすかに揺れる。


 開いた入口から、山小屋の暖炉の赤が差し込んでいた。

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