【85】草原を振り返る
小屋の扉に拳を上げる前に、わたしは振り返った。
山腹の風が頬を冷やす。南の遠く、草原の名残が薄い緑の帯になって、地平線の手前で灰色の岩肌にのまれていた。
あの向こうには、海とハーフェンシュタットの港がある。ロレンツォさんは今日も、樽の前で魚醤の様子を見ているだろう。東港の若い漁師たちも、教わった手順を思い出しながら、自分たちの樽を育て始めているはずだ。
草原では、ユーリアが革袋を揉んでいる頃だろう。ライラは母の指先を盗むように見て、いつか同じ手つきで馬乳酒を仕込む日を夢見ている。バルダックさまはゲルの中で目を閉じ、百年前の先生の声を、静かに辿っているかもしれない。
わたしの旅は——帝都を出て、もう一ヶ月以上になる。
出会った顔。学んだ手つき。舌に残った味。ロレンツォさんの魚醤の塩気、マルタばあさんのシチューの湯気、ユーリアのチーズの酸味、バルダックさまの古い声。ばらばらだったものが、腹の奥で、厚みを持って重なっている。
今度はそこへ、山の煙と塩が入る。
「リーゼ」
ネルが肩の上で言った。
「感傷は後だ。叩け」
「はい」
わたしは息を吐き、小屋の扉へ手を伸ばした。
* * *
こんこん。
返事はない。
もう一度叩くと、中でごそりと音がした。床板を踏む、重い足音が近づいてくる。
扉が軋んで開いた。
そこに立っていたのは——大きな男だった。
高い背に広い肩、顎には無精髭。日に焼けた顔の皺は深く、年の頃は四十代半ば。暗い目は静かで、山の岩みたいに動かない。
「……誰だ」
低い声だった。怒鳴るのではなく、目の前に石をひとつ置くように、事実だけを求める声。
「リーゼ・ヴァイスフェルトと申します。草原のユーリア族長から、紹介状をお預かりしています」
わたしは、ソフィアさまから受け取った紹介状を差し出した。
ハンスさんは紙を受け取ると、親指で端を押さえて目を通した。顔は動かない。
沈黙が、扉口の冷気と一緒に居座った。
「……入れ」
それだけ言って、ハンスさんは奥へ戻った。
わたしは仲間を振り返る。殿下が頷いた。
「行こう」
わたしたちは、山小屋の敷居を越えた。
* * *
小屋の中は、物が多いのに乱れていなかった。
壁には猟銃と弓矢、罠に使う鉄具。棚には干し肉と薬草の瓶。小さな窓は磨かれていて、細い光が床に落ちる。暖炉の火がぱちぱちと鳴り、冷えた指先に熱が戻ってきた。
そして——壁の一面に、燻製肉が吊るされていた。
鹿の脚、兎、鳥、猪らしい塊。煙の入り方がそれぞれ違うのか、暗い赤から黒に近い色まで、艶を沈めて並んでいる。
匂いが、すごかった。
木の煙。脂の甘さ。塩と時間がぎゅっと詰まった、深い香り。前世ならベーコンやプロシュートに近いと言っただろうけれど、これはもっと土に近い。もっと獣に近くて、複雑だった。
「ハンスさん。この燻製は——」
「座れ。話は座ってからだ」
ハンスさんは、木のテーブルの椅子を指した。椅子は四脚。六人分はない。
「二人は床でいい」
「俺が立つ」
殿下がすぐに言った。フィンさんも「わたくしも」と続く。
ハンスさんは殿下を見た。顎を引き、足元から肩まで、静かに測る。
「あんた。剣士か」
「ああ」
「山で剣は使えんぞ」
「承知している。が、獣相手なら——使える」
「ふん」
ハンスさんは暖炉の前の椅子に、どっかりと腰を落とした。
わたし、ソフィアさま、アリア、ネルがテーブルに着く。
「ユーリアの紹介なら、追い返す理由はない」
ハンスさんは火を見たまま言った。
「だが、山にいる間は俺の規則だ。山の掟は、町の法より厳しい」
「分かりました」
「余分に狩るな。食う分だけ、取る」
「はい」
「風を聞け。風が変わったら、すぐ動け。山の嵐は命を取る」
「はい」
「それから——」
ハンスさんが、わたしを見た。
「お前が料理人なら、燻製の煙を嗅いでみろ。一番右の肉だ」
わたしは立ち上がり、壁の燻製肉に近づいた。
一番右の肉は、他のものより色が薄い。煙を浅く入れたのか、燻す時間を短くしたのか。吊り紐を揺らさないように身を寄せる。
鼻を近づけ、息を吸った。
……木の煙が最初に来る。ブナの煙だ。その下から、微かに甘い香りがのぼってくる。ハーブではない。樹脂だろうか。
それから——肉の脂が温められたような、丸い旨味の匂い。
「ブナの煙と……何か、甘い樹脂の香りがします。肉は鹿ですか」
ハンスさんの目が、僅かに動いた。
そのときは瞬きに見えた。後で、あれが驚きだったのだと分かった。
「正解だ」
「樹脂は——この山の固有種の針葉樹ですか?」
「ターネンバウム。杉に似た木だ。その樹脂を、ブナの薪に塗って燻す」
「それで、この甘い香りが——」
「座れ」
ハンスさんが、また短く言った。
わたしは席に戻った。
ハンスさんは暖炉の火を見つめたまま、ぽつりと言う。
「忘れるな。料理人なら、山の食材に敬意を持て。山は渡す。雑に奪えば、取り返す」
「はい」
「お前は——鼻が利くな」
「料理人ですから」
「ふん」
ハンスさんは立ち上がった。棚から燻製肉を一本取り、ナイフで薄く切る。
切った肉を、わたしたちの前に置いた。
「食え。腹が減っているだろう」
わたしは燻製肉を一切れ、口に入れた。
——美味しい。
顎を動かすたび、肉の旨味が染み出してくる。煙の香りが鼻へ抜け、脂が体温でほどけて舌に広がった。塩は控えめなのに、肉と煙だけで味が立っている。
「ハンスさん、これは——すごいです」
「ふん」
ハンスさんは、何も言わなかった。
でも無精髭の下で、口元が紙一枚ぶんだけ動いた気がした。
わたしは、山の食卓の入り口に片足をかけた。
燻製と保存食の世界。
その奥で、知らない火が待っている。
ネルが、わたしの肩でしっぽを揺らした。
「リーゼ。山の匂いがするぞ」
「はい」
「エルヴィンも、この匂いを嗅いだはずだ」
「はい」
ぱち、と薪が爆ぜた。暖炉の火が、小屋の中を温かく照らしていた。




