【84】北の影
ベルクハイムに着いたのは、翌日の午後だった。
山の麓へ張り付くように、石造りの小さな町が沈んでいた。屋根には雪止めの金具。窓は厚い二重硝子。寒冷地の家は、風に逆らうというより、風を受け流す形をしている。通りを行く人たちは毛皮の外套に首を埋め、赤くなった頬を手袋でこすっていた。
宿に荷を下ろし、外套の襟を立て直してから情報を拾いに出た。
町の酒場は、昼だというのに煙と麦酒の匂いで温かかった。ソフィアさまが帳場に立つ亭主へ、ハンスの居場所を尋ねる。
「ハンスじいさんか。山腹の三本杉、分かれ道を右だ。しばらく行きゃ小屋がある。……ただな」
亭主は杯を拭く手を止め、眉間に皺を寄せた。
「あの人、客を入れん。行ったところで、鼻先で扉を閉められるぞ」
「また頑固な人ですか……」
ロレンツォさんの顔が浮かんで、わたしは笑いかけた口を押さえた。旅はどうして、こうも頑固者を連れてくるのだろう。
「紹介状があります」
「紹介状? 誰からだ」
「草原の、ユーリア族長から」
亭主の口が、ぽかんと開いた。
「ユーリアを知ってるのか、あんた」
「先日、お世話になりました」
「そりゃ大したもんだ。あの族長の紹介なら、ハンスも門前払いはできんだろ。昔なじみでな。ユーリアの族がこの山で狩りをする時、ハンスが案内をしてたんだ」
つながっていた。
港で差し出された手も、草原で交わした言葉も、見えないところで山奥へ細い糸を伸ばしている。旅はわたしより先に、結び目を作るらしい。
* * *
ベルクハイムの宿で、一晩、体を休めた。
翌朝早く、山に入る支度に取りかかる。馬車は町に預け、ここからは徒歩だ。山道に車輪は入らない。必要なものだけを床に並べ、余分な包みを宿の部屋へ残して、背嚢の口を締めた。
わたしが詰めたのは、鍋一つ、包丁二本、塩、出汁用の干し茸、リヒト粒、魚醤の小瓶、馬乳酒の菌株。料理人としての最低限。けれど山へ入るには、これがいちばん手から離せない。
「リーゼ、荷物、重くないですか」
フィンさんが肩紐を見て眉を下げる。
「大丈夫です。鍋は軽いものを選びました」
「……鍋を、山に?」
「料理人ですから」
殿下は背嚢を負い、いつもより近い位置に剣を帯びていた。山には獣がいる。護衛の仕事は、町の門を出たところから色を変える。
アリアは自分の背嚢にノートと筆記用具を押し込み、「わたしも記録係やります!」と胸を張っている。
ソフィアさまは、地図を開き、方位磁石の針が落ち着くのを待っていた。指先だけが、寒さでわずかに赤い。
出発前、フィンさんが表情を硬くして殿下のそばへ寄った。
「殿下。報告があります」
「何だ」
「今朝、町の入口で、不審な男を見ました」
背中を、冷たいものが撫でた。
「赤い蝋印章の——」
「いえ。別人です。ヴィクトルに似た気配はありましたが、顔も背格好も違う。帝国語を話していました。ただ、訛りが」
「北方訛りか」
「はい。ゼルギウス寄りの」
殿下の視線が細くなる。
「ヴィクトル一人ではなかった、ということだな」
「複数の間者が、別々のルートでリーゼさんを追っている可能性があります」
わたしは冷えた空気を胸まで入れた。
ユーリアが言っていた「追っ手」は三人。そこへ別口の影。少なくとも四人分の目が、どこかでこちらを測っている。
「殿下、山に入れば——」
「山の中は、むしろ危険だ。人目がない。襲う側には都合がいい」
殿下の手が剣の柄にかかった。
「だが、山に入らない選択肢はない。行くぞ」
「はい」
「俺が先頭を歩く。フィンが殿。リーゼとアリアは中央。ソフィアは——」
「わたしは、リーゼの隣にいるわ」
ソフィアさまが口を挟んだ。声は平らで、引かない人の声だった。
「ソフィア、護衛の経験は——」
「ないわ。でも、わたしには、これがあるの」
外套の内側から、小さな水晶の杖が滑り出た。朝の光を受けて、先端が淡く光る。
「防御魔法の初級は、学院で習ったわ。盾くらいなら張れる」
「ソフィアさま、いつの間に——」
「旅に出る前。練習したのよ。あなたを守るために」
唇を噛んだら、痛みで目の奥が熱くなった。
殿下は剣を、ソフィアさまは盾を、フィンさんは周囲の気配を握っている。わたしの周りに、それぞれの守り方が並んだ。
わたしの手にあるのは、包丁と鍋だ。
それでも、火を起こして、腹を満たして、次の一歩を出させることはできる。
* * *
山道に入って二時間もすると、息を吐くたび白くにじみ、耳の先がじんじんした。広葉樹はいつの間にか針葉樹に替わり、踏みしめる土には霜が残っている。
殿下は何度か足を止め、風上へ顎を向けた。軍事訓練で身につけた技が、こんな山道でも無駄なく働く。
「リーゼ。この先、獣の匂いがする」
「獣——」
「熊か、狼か。大型の肉食獣だ」
足裏が地面に貼り付いた。
「大丈夫だ。俺がいる」
短い言葉だった。けれど肩に置かれた手みたいに、余計な震えを止めてくれる。
三本杉の分かれ道に着いたのは、昼過ぎだった。右の道へ入る。
山道は細くなり、枝が両側から腕を伸ばして空を削った。足元には獣の跡が増える。鹿の細い蹄、兎の跳ねた跡、狐の軽い足取り。その端に、土を深く押しつぶした熊の足跡があった。
「新しい足跡だ」
殿下が片膝を折り、指で土の縁をなぞる。
「一日以内のものだ」
「近くにいる、ということですか」
「ああ。だが、昼間は動かないことが多い」
背嚢の中で、鍋の縁に指を当てた。
刃の代わりにはならない。盾にもならない。けれど火と水があれば、わたしはこれで戦える。料理を作る。それが、わたしの守り方だ。
さらに三十分歩いた先で、小屋が見えた。
木と石で組まれた、頑丈な山小屋だった。苔のついた屋根から雪解け水が滴り、煙突からは薄い煙がほどけている。
小屋の前には、燻製用の棚が何台も並んでいた。肉の塊が吊られ、煙を吸って黒く艶を帯びている。保存のための肉。山で冬を越すための知恵。
樹皮の青い匂い。湿った土。燻製の脂が焦げる、深くて複雑な匂い。
胸の奥が、きゅっと鳴った。
知らない煙の知恵が、扉の向こうで火を焚いている。
「ここが——ハンスさんの小屋」
「そのようね」
ソフィアさまが紹介状を取り出した。
わたしは小屋の扉へ向かって歩いた。




