表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
84/187

【84】北の影

 ベルクハイムに着いたのは、翌日の午後だった。


 山の麓へ張り付くように、石造りの小さな町が沈んでいた。屋根には雪止めの金具。窓は厚い二重硝子。寒冷地の家は、風に逆らうというより、風を受け流す形をしている。通りを行く人たちは毛皮の外套に首を埋め、赤くなった頬を手袋でこすっていた。


 宿に荷を下ろし、外套の襟を立て直してから情報を拾いに出た。


 町の酒場は、昼だというのに煙と麦酒の匂いで温かかった。ソフィアさまが帳場に立つ亭主へ、ハンスの居場所を尋ねる。


「ハンスじいさんか。山腹の三本杉、分かれ道を右だ。しばらく行きゃ小屋がある。……ただな」


 亭主は杯を拭く手を止め、眉間に皺を寄せた。


「あの人、客を入れん。行ったところで、鼻先で扉を閉められるぞ」


「また頑固な人ですか……」


 ロレンツォさんの顔が浮かんで、わたしは笑いかけた口を押さえた。旅はどうして、こうも頑固者を連れてくるのだろう。


「紹介状があります」


「紹介状? 誰からだ」


「草原の、ユーリア族長から」


 亭主の口が、ぽかんと開いた。


「ユーリアを知ってるのか、あんた」


「先日、お世話になりました」


「そりゃ大したもんだ。あの族長の紹介なら、ハンスも門前払いはできんだろ。昔なじみでな。ユーリアの族がこの山で狩りをする時、ハンスが案内をしてたんだ」


 つながっていた。

 港で差し出された手も、草原で交わした言葉も、見えないところで山奥へ細い糸を伸ばしている。旅はわたしより先に、結び目を作るらしい。



 * * *



 ベルクハイムの宿で、一晩、体を休めた。


 翌朝早く、山に入る支度に取りかかる。馬車は町に預け、ここからは徒歩だ。山道に車輪は入らない。必要なものだけを床に並べ、余分な包みを宿の部屋へ残して、背嚢の口を締めた。


 わたしが詰めたのは、鍋一つ、包丁二本、塩、出汁用の干し茸、リヒト粒、魚醤の小瓶、馬乳酒の菌株。料理人としての最低限。けれど山へ入るには、これがいちばん手から離せない。


「リーゼ、荷物、重くないですか」


 フィンさんが肩紐を見て眉を下げる。


「大丈夫です。鍋は軽いものを選びました」


「……鍋を、山に?」


「料理人ですから」


 殿下は背嚢を負い、いつもより近い位置に剣を帯びていた。山には獣がいる。護衛の仕事は、町の門を出たところから色を変える。


 アリアは自分の背嚢にノートと筆記用具を押し込み、「わたしも記録係やります!」と胸を張っている。


 ソフィアさまは、地図を開き、方位磁石の針が落ち着くのを待っていた。指先だけが、寒さでわずかに赤い。


 出発前、フィンさんが表情を硬くして殿下のそばへ寄った。


「殿下。報告があります」


「何だ」


「今朝、町の入口で、不審な男を見ました」


 背中を、冷たいものが撫でた。


「赤い蝋印章の——」


「いえ。別人です。ヴィクトルに似た気配はありましたが、顔も背格好も違う。帝国語を話していました。ただ、訛りが」


「北方訛りか」


「はい。ゼルギウス寄りの」


 殿下の視線が細くなる。


「ヴィクトル一人ではなかった、ということだな」


「複数の間者が、別々のルートでリーゼさんを追っている可能性があります」


 わたしは冷えた空気を胸まで入れた。


 ユーリアが言っていた「追っ手」は三人。そこへ別口の影。少なくとも四人分の目が、どこかでこちらを測っている。


「殿下、山に入れば——」


「山の中は、むしろ危険だ。人目がない。襲う側には都合がいい」


 殿下の手が剣の柄にかかった。


「だが、山に入らない選択肢はない。行くぞ」


「はい」


「俺が先頭を歩く。フィンが殿。リーゼとアリアは中央。ソフィアは——」


「わたしは、リーゼの隣にいるわ」


 ソフィアさまが口を挟んだ。声は平らで、引かない人の声だった。


「ソフィア、護衛の経験は——」


「ないわ。でも、わたしには、これがあるの」


 外套の内側から、小さな水晶の杖が滑り出た。朝の光を受けて、先端が淡く光る。


「防御魔法の初級は、学院で習ったわ。盾くらいなら張れる」


「ソフィアさま、いつの間に——」


「旅に出る前。練習したのよ。あなたを守るために」


 唇を噛んだら、痛みで目の奥が熱くなった。


 殿下は剣を、ソフィアさまは盾を、フィンさんは周囲の気配を握っている。わたしの周りに、それぞれの守り方が並んだ。


 わたしの手にあるのは、包丁と鍋だ。

 それでも、火を起こして、腹を満たして、次の一歩を出させることはできる。



 * * *



 山道に入って二時間もすると、息を吐くたび白くにじみ、耳の先がじんじんした。広葉樹はいつの間にか針葉樹に替わり、踏みしめる土には霜が残っている。


 殿下は何度か足を止め、風上へ顎を向けた。軍事訓練で身につけた技が、こんな山道でも無駄なく働く。


「リーゼ。この先、獣の匂いがする」


「獣——」


「熊か、狼か。大型の肉食獣だ」


 足裏が地面に貼り付いた。


「大丈夫だ。俺がいる」


 短い言葉だった。けれど肩に置かれた手みたいに、余計な震えを止めてくれる。


 三本杉の分かれ道に着いたのは、昼過ぎだった。右の道へ入る。


 山道は細くなり、枝が両側から腕を伸ばして空を削った。足元には獣の跡が増える。鹿の細い蹄、兎の跳ねた跡、狐の軽い足取り。その端に、土を深く押しつぶした熊の足跡があった。


「新しい足跡だ」


 殿下が片膝を折り、指で土の縁をなぞる。


「一日以内のものだ」


「近くにいる、ということですか」


「ああ。だが、昼間は動かないことが多い」


 背嚢の中で、鍋の縁に指を当てた。

 刃の代わりにはならない。盾にもならない。けれど火と水があれば、わたしはこれで戦える。料理を作る。それが、わたしの守り方だ。


 さらに三十分歩いた先で、小屋が見えた。


 木と石で組まれた、頑丈な山小屋だった。苔のついた屋根から雪解け水が滴り、煙突からは薄い煙がほどけている。


 小屋の前には、燻製用の棚が何台も並んでいた。肉の塊が吊られ、煙を吸って黒く艶を帯びている。保存のための肉。山で冬を越すための知恵。


 樹皮の青い匂い。湿った土。燻製の脂が焦げる、深くて複雑な匂い。


 胸の奥が、きゅっと鳴った。


 知らない煙の知恵が、扉の向こうで火を焚いている。


「ここが——ハンスさんの小屋」


「そのようね」


 ソフィアさまが紹介状を取り出した。


 わたしは小屋の扉へ向かって歩いた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ