【83】告白の前夜
街道宿駅を発って三日目の夕暮れ。
北山の麓が、馬車の窓枠いっぱいに迫っていた。幌の隙間から見上げると、灰色の岩肌に夕日がこびりつくように赤い。頂の雪はオレンジを含んで、砂糖を焦がした飾り菓子みたいに光っていた。
草原の乾いた風とは違う。ここでは空気そのものが冷えていて、息を吐くたび白く散った。
わたしは毛皮の外套を胸元で握りしめ、馬車の隅で膝を抱えていた。
「リーゼさま、寒いですか?」
アリアが身を乗り出してくる。膝の上の手まで心配そうに握り合わされていた。
「平気。冷えが入ってくるだけ」
「わたし、お湯を沸かしましょうか?」
「アリア、馬車の中でお湯は沸かせないよ」
「あ、そうですね……」
アリアの肩がしゅんと落ちた。
その横から、殿下が黙って腕を伸ばした。自分の外套の端を、ぱさりとわたしの肩へ掛ける。
「殿下——」
「俺は寒さに強い」
氷の魔術師なのだから、寒さには強い。それは知っている。
それでも、殿下の外套に残った体温が首筋へ触れると、胸の奥が妙なふうに跳ねた。
「……ありがとうございます」
「ああ」
ソフィアさまが地図を指で押さえ、顔を上げた。
「明日の昼にはベルクハイムに着くわ。山の麓の町よ。そこで補給と情報収集を済ませてから、山に入りましょう」
「ソフィアさま、ハンスさんという猟師の情報は?」
「ユーリアからの紹介状がある。ベルクハイムの酒場で聞けば、誰かしら居場所を知っているはずよ」
「分かりました」
車輪が石を噛んだ。馬車ががくんと揺れ、わたしは殿下の肩にこつんともたれかかってしまう。
「あ、すみません」
「いい」
殿下は前を向いたままだった。
けれど、肩に掛かった外套の端だけを、指でつまんで引き寄せてくれた。
* * *
その夜、街道宿駅の小さな宿で、わたしたちは夕食を取った。
わたしは厨房を借り、持参した食材を作業台へ並べた。
今日の献立は、ユーリアからもらった馬乳酒の菌株で仕込んだヨーグルトと、港町の魚醤で味を決めた鶏肉の煮込み。鍋からは魚醤の塩気を含んだ湯気が立ち、器の白いヨーグルトからは草原の乳の酸っぱさがふわっと返る。
ハーフェンシュタットで覚えた旨みと、草原で教わった発酵の力が、手元の皿に並んでいる。
「……美味い」
殿下が煮込みを一口食べ、短く息を吐いた。
「温かい」
その言い方に、わたしは匙を持った手を止めた。最近の殿下は、「美味い」の先を探すようになっている。港町で出た「深い」や、草原でこぼした「穏やかだ」の隣に、今日は「温かい」が置かれた。
味の言葉が増えていく。それだけで、胸がじんわりした。
「殿下、ありがとうございます」
「礼を言うのは俺の方だ。毎日飯を作ってくれている」
「殿下の感想があると、また作ろうって思えます」
「……ふん」
殿下が顔を背けた。耳が赤い。
* * *
夕食の後。
フィンさんとアリアは眠気に負けて部屋へ戻り、ソフィアさまも地図の束を抱えて引き上げた。
宿の小さな庭に、わたしと殿下だけが残った。
北山が月明かりの中で黒く立っている。星が近い。帝都では見えない数の星が、空の奥まで詰まっていた。
「殿下」
「何だ」
「……草原で、何か、言いかけませんでしたか」
殿下の足が止まった。庭石を踏む音も消える。
冷えた空気の中で、わたしの袖がこすれる音だけがやけに大きかった。
「リーゼ」
「はい」
「俺は、お前に——言わなければならないことがある」
殿下の声が低くなった。
いつもの冷たさではない。言葉を喉の奥で押さえつけているような低さだった。
「殿下」
「だが、今は——まだ、言えない」
「……え」
「旅の途中で言うべきことではない。旅が終わって、帝都に戻ってから——ちゃんと、向き合って、言う」
殿下がわたしを見た。
碧眼の底に星が映っていた。冬の湖みたいな色に、呼吸が詰まる。
「それまで——待ってくれるか」
わたしの心臓が、肋骨を内側から叩いていた。
殿下の言葉の意味は、もう届いている。届いているのに、胸の中で形がほどけて、ひとつの名前にならない。
「待ちます」
声は不思議と震えなかった。
「殿下が、話してくださる時を——待ちます」
殿下は、長いこと、わたしの顔を見つめていた。
それから、口元がかすかに緩んだ。氷の端が欠けるような、不器用な笑顔だった。
「ありがとう」
殿下の口から「ありがとう」を聞くのは、この旅で初めてだった。
耳も頬も熱い。絶対に赤い。
でも、月明かりの中なら、殿下には見えないはずだ。
……たぶん。
いや、見えている。
殿下の目は、暗闇でもよく利く。
* * *
部屋に戻ると、ソフィアさまが本を読んでいた。
わたしの顔を見た瞬間、ソフィアさまはにやりと笑った。
「リーゼ、お顔が真っ赤よ」
「夜風が寒かったんです」
「嘘おっしゃい」
わたしは布団を引っつかみ、頭から被った。
「おやすみなさい!」
「殿下に何か言われたのね」
「お、おやすみなさいッ!」
「ふふ」
ソフィアさまの楽しそうな笑い声が、枕越しにくぐもって聞こえた。
わたしは布団の中で、胸に手を当てた。まだ、うるさい。
殿下が言いかけたこと。
帝都に戻ってから、ちゃんと言うということ。
答えを考えようとしても、指の間から逃げる。
まだ分からない。
胸の上の手から、力が抜けた。
北山の向こうで風が鳴った。窓枠が小さく震え、冷えた夜の匂いが布団の端まで忍び込んでくる。




