表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
83/182

【83】告白の前夜

 街道宿駅を発って三日目の夕暮れ。


 北山の麓が、馬車の窓枠いっぱいに迫っていた。幌の隙間から見上げると、灰色の岩肌に夕日がこびりつくように赤い。頂の雪はオレンジを含んで、砂糖を焦がした飾り菓子みたいに光っていた。


 草原の乾いた風とは違う。ここでは空気そのものが冷えていて、息を吐くたび白く散った。

 わたしは毛皮の外套を胸元で握りしめ、馬車の隅で膝を抱えていた。


「リーゼさま、寒いですか?」


 アリアが身を乗り出してくる。膝の上の手まで心配そうに握り合わされていた。


「平気。冷えが入ってくるだけ」


「わたし、お湯を沸かしましょうか?」


「アリア、馬車の中でお湯は沸かせないよ」


「あ、そうですね……」


 アリアの肩がしゅんと落ちた。


 その横から、殿下が黙って腕を伸ばした。自分の外套の端を、ぱさりとわたしの肩へ掛ける。


「殿下——」


「俺は寒さに強い」


 氷の魔術師なのだから、寒さには強い。それは知っている。

 それでも、殿下の外套に残った体温が首筋へ触れると、胸の奥が妙なふうに跳ねた。


「……ありがとうございます」


「ああ」


 ソフィアさまが地図を指で押さえ、顔を上げた。


「明日の昼にはベルクハイムに着くわ。山の麓の町よ。そこで補給と情報収集を済ませてから、山に入りましょう」


「ソフィアさま、ハンスさんという猟師の情報は?」


「ユーリアからの紹介状がある。ベルクハイムの酒場で聞けば、誰かしら居場所を知っているはずよ」


「分かりました」


 車輪が石を噛んだ。馬車ががくんと揺れ、わたしは殿下の肩にこつんともたれかかってしまう。


「あ、すみません」


「いい」


 殿下は前を向いたままだった。

 けれど、肩に掛かった外套の端だけを、指でつまんで引き寄せてくれた。



 * * *



 その夜、街道宿駅の小さな宿で、わたしたちは夕食を取った。


 わたしは厨房を借り、持参した食材を作業台へ並べた。


 今日の献立は、ユーリアからもらった馬乳酒の菌株で仕込んだヨーグルトと、港町の魚醤で味を決めた鶏肉の煮込み。鍋からは魚醤の塩気を含んだ湯気が立ち、器の白いヨーグルトからは草原の乳の酸っぱさがふわっと返る。


 ハーフェンシュタットで覚えた旨みと、草原で教わった発酵の力が、手元の皿に並んでいる。


「……美味い」


 殿下が煮込みを一口食べ、短く息を吐いた。


「温かい」


 その言い方に、わたしは匙を持った手を止めた。最近の殿下は、「美味い」の先を探すようになっている。港町で出た「深い」や、草原でこぼした「穏やかだ」の隣に、今日は「温かい」が置かれた。


 味の言葉が増えていく。それだけで、胸がじんわりした。


「殿下、ありがとうございます」


「礼を言うのは俺の方だ。毎日飯を作ってくれている」


「殿下の感想があると、また作ろうって思えます」


「……ふん」


 殿下が顔を背けた。耳が赤い。



 * * *



 夕食の後。


 フィンさんとアリアは眠気に負けて部屋へ戻り、ソフィアさまも地図の束を抱えて引き上げた。


 宿の小さな庭に、わたしと殿下だけが残った。


 北山が月明かりの中で黒く立っている。星が近い。帝都では見えない数の星が、空の奥まで詰まっていた。


「殿下」


「何だ」


「……草原で、何か、言いかけませんでしたか」


 殿下の足が止まった。庭石を踏む音も消える。


 冷えた空気の中で、わたしの袖がこすれる音だけがやけに大きかった。


「リーゼ」


「はい」


「俺は、お前に——言わなければならないことがある」


 殿下の声が低くなった。

 いつもの冷たさではない。言葉を喉の奥で押さえつけているような低さだった。


「殿下」


「だが、今は——まだ、言えない」


「……え」


「旅の途中で言うべきことではない。旅が終わって、帝都に戻ってから——ちゃんと、向き合って、言う」


 殿下がわたしを見た。


 碧眼の底に星が映っていた。冬の湖みたいな色に、呼吸が詰まる。


「それまで——待ってくれるか」


 わたしの心臓が、肋骨を内側から叩いていた。

 殿下の言葉の意味は、もう届いている。届いているのに、胸の中で形がほどけて、ひとつの名前にならない。


「待ちます」


 声は不思議と震えなかった。


「殿下が、話してくださる時を——待ちます」


 殿下は、長いこと、わたしの顔を見つめていた。


 それから、口元がかすかに緩んだ。氷の端が欠けるような、不器用な笑顔だった。


「ありがとう」


 殿下の口から「ありがとう」を聞くのは、この旅で初めてだった。


 耳も頬も熱い。絶対に赤い。

 でも、月明かりの中なら、殿下には見えないはずだ。


 ……たぶん。


 いや、見えている。

 殿下の目は、暗闇でもよく利く。



 * * *



 部屋に戻ると、ソフィアさまが本を読んでいた。

 わたしの顔を見た瞬間、ソフィアさまはにやりと笑った。


「リーゼ、お顔が真っ赤よ」


「夜風が寒かったんです」


「嘘おっしゃい」


 わたしは布団を引っつかみ、頭から被った。


「おやすみなさい!」


「殿下に何か言われたのね」


「お、おやすみなさいッ!」


「ふふ」


 ソフィアさまの楽しそうな笑い声が、枕越しにくぐもって聞こえた。


 わたしは布団の中で、胸に手を当てた。まだ、うるさい。


 殿下が言いかけたこと。

 帝都に戻ってから、ちゃんと言うということ。


 答えを考えようとしても、指の間から逃げる。

 まだ分からない。

 胸の上の手から、力が抜けた。


 北山の向こうで風が鳴った。窓枠が小さく震え、冷えた夜の匂いが布団の端まで忍び込んでくる。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ