【82】乳の歌、時間の殻
ユーリアが初めて「乳と話した」のは、五歳の冬だった。
父が盗賊の襲撃で死んでから、半年が過ぎていた。
母は悲しむ暇を奥歯で噛み殺すようにして、族をまとめるのに必死だった。幼いユーリアの髪を梳き、飯を食わせ、寝床へ押し込むのは、たいてい年老いた祖母の役目だった。
その祖母が、ある朝、馬乳酒を仕込んでいた。
革袋の腹で、白い馬乳がたぷりと揺れる。
祖母は目を閉じ、節くれだった手で革を揉んでいた。口の奥から洩れる声は、歌に似て、祈りにも似て、低く穏やかだった。
ユーリアは祖母の膝元に座り、革袋ばかり見ていた。
「ばあちゃん」
「なんだ、ユーリア」
「袋の中、光っとるよ」
祖母の手が止まった。
「光っとる?」
「うん。金色の、小さい光。いっぱい」
祖母はユーリアの顔を覗き込んだ。しわだらけの目が見開かれ、やがて目尻の深い皺がふっと緩んだ。
「ユーリア。お前にも、見えるのか」
「見える。ばあちゃんの手の中で、ぴかぴかしとる」
祖母は革袋を膝に置き、ユーリアの頭を撫でた。乾いた掌が、髪を一度、二度と撫で下ろす。
「ユーリア。それはな、『母の手の光』と言う。わしの母も、そのまた母も、見える者だけが見える光だ」
「母の手の光?」
「乳の中に住んでおる、小さな職人たちの命の輝きだ。お前が大きくなったら、お前の手にも同じ光が宿る」
五歳のユーリアには、祖母の言葉の意味など分からなかった。
ただ、革袋の奥でまたたく金色が、胸の中に残った。
* * *
十年が、草の色と雪の匂いを連れて過ぎた。
母が急死して、十五歳のユーリアは族長を継いだ。
若すぎる族長に、族の男たちは眉をひそめた。弟のボガートだけが、何も言わず、ユーリアの隣に立ち続けた。
族長になって最初の冬。
馬乳酒の仕込みが上手くいかなかった。発酵が進まない。酸味が立たず、舌に残るのは水っぽさばかり。族の女たちは、革袋の口を覗いて肩を落とした。
「今年の馬乳は質が悪い」
「仕方あるまい。冬を越すのが先だ」
女たちが諦めかけた夜。
ユーリアは一人で、革袋の前に座った。
目を閉じ、手を革袋に置いた。
祖母の声が耳の奥によみがえった。
『乳の中に住んでおる、小さな職人たちの命の輝き』
ユーリアは革袋を揉み始めた。押して、戻して、また押す。力を入れすぎず、抜きすぎず。赤子を寝かしつける時の手つきで、祖母がそうしていたように。
気づけば、声が出ていた。
「頼むぞ、お前たち。今年は寒いが、わしらを助けてくれ」
革袋の奥で、金色がかすかに灯った。
ユーリアの目から、涙がこぼれた。
翌朝、革袋を開けると、酸っぱい匂いがふわりと立った。
馬乳酒は、きちんと発酵していた。深い酸味と、豊かなコク。族の女たちが目を丸くするほどの出来だった。
「ユーリア、何をしたんだ」
「乳と、話しただけだ」
女たちは首を傾げた。
その冬から、難しい夜になると、ユーリアは革袋の前に座るようになった。
乳は、いつもすぐではない。それでも、やがてユーリアに応えてくれた。
* * *
リーゼという少女が族に来た時、ユーリアはひと目で分かった。
この娘は、同じものが見えている。
リーゼの手が馬乳酒に触れた瞬間、革袋の中が光った。祖母の光を思い出すほど明るく、母の手を思わせるほど温かい。けれど、それより奥があった。ユーリア自身の手でも届かない深さが。
あの娘は、光を「エッセンス」と呼んだ。
学術的で、帝都の匂いがする名前だった。
ユーリアにとっては、「母の手の光」で十分だった。名前なんて、どうでもいい。
ただ、あの娘は光から目を逸らさない。
名前と理論を与え、世界中の「母の手」へ届けようとしている。
ユーリアは革袋を揉みながら、呟いた。
「ばあちゃん。先生の後継者が来たよ。銀の髪の、小さな、変な娘だ」
革袋の中で、小さな職人たちが、ぴかぴかと光った。
ユーリアは笑った。
「ばあちゃんも、気に入ったか」
草原の風が、ゲルの隙間から吹き込んだ。
革袋の中の光が、その風に乗るように揺れた。
百年前の手から渡ってきた金色は、今のユーリアの掌の下で、まだ息をしていた。




