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【81】皇子の素顔

 宴の熱がまだ草に残っていそうな翌朝、五時。


 約束どおり、ボガートは馬車の脇で待っていた。

 朝靄は低く、ユーリアとライラ、バルダックさまの肩を白く濡らしている。


 夜はまだ抜けきらない。

 草原の東の縁だけが、灰青から薄桃へほどけかけていた。


「リーゼ姉さま」


 ライラが駆け寄って、わたしの手を両手で包んだ。


「これ、わたしの宝物」


 小さな指が、首もとの紐をほどく。

 貝殻のネックレスが、朝露みたいに冷えて、わたしの手のひらへ落ちた。


「ライラ」


「リーゼ姉さまに、あげます」


「これは——」


「お母さまが、わたしにくれたものです。でも、リーゼ姉さまの方が、似合うと思いました」


 胸の奥が、きゅっと熱くなった。


 ライラは、ぱっと身をひるがえし、ユーリアの背中へ隠れる。

 のぞいた耳まで赤かった。


 ユーリアが肩を揺らして笑う。


「ライラの宝物だ。粗末にするな」


「絶対に、しません」


 わたしはネックレスを首にかけた。

 貝殻が胸の上で跳ね、ちりん、と軽い音を立てる。


「リーゼ」


「ユーリア」


「これは、お前さんへの贈り物だ」


 差し出されたのは、折り目のついた地図だった。

 端に、何度も開いた指の跡が残っている。


「北山の案内図。山に入るなら、北の麓、ベルクハイムの町を通る北の道を行け。そこから先は、ハンスという寡黙な猟師に頼るといい」


「ハンスさん——」


「先生もその男に会った、とバルダックさまは言うとる。ハンスは、先生の知恵の一部を継いでいるかもしれん」


 わたしは地図を胸に抱き、頷いた。


 地図の折り目を指で押さえる。

 ベルクハイム、北の道、ハンスという猟師。次の行き先が、朝の冷えの中でひとつに定まった。


「ありがとうございます」


「これも忘れるな」


 ユーリアの手が、わたしの肩に置かれた。

 指先の力だけで、声の調子が低くなる。


「我らの族が掴んだ追っ手の話だ。今朝、もう一度確かめた。三人の追っ手は、まだ二日後ろにいる。しばらくは安全だ」


「分かりました」


「だが、油断するな」


「はい」


 わたしは深く頭を下げた。


 バルダックさまが、一歩前へ出る。


「リーゼ」


「はい」


「先生——エルヴィンの最後の地に、お前さんは行く」


「最後の地?」


「辺境の修道院。北の海辺。あの男が死んだ場所だ」


 バルダックさまは目を閉じ、皺の深い手を杖に重ねた。


「行ったら、あの男の墓に手を合わせてくれ。母さんの代わりに、礼を言うてくれ」


「必ず」


 喉に言葉がつかえたまま、わたしはもう一度、深く頭を下げた。



 * * *



 馬車が出発した。


 ユーリアの族が、朝靄の向こうで見送ってくれる。

 ライラは両手を大きく振った。

 ボガートは無言で頷く。

 ユーリアは口の端だけを緩め、バルダックさまは目を閉じて祈っていた。


 車輪が軋み、馬車は丘を登る。

 草の匂いが遠ざかっていった。


 わたしは車窓から振り返る。


 白いゲルが、点々と小さくなっていく。

 篝火の消えた跡は、黒い輪になって地面に残っていた。

 ゆうべまでの熱が、朝の光に吸われていく。


「リーゼ姉さま」


 アリアが、わたしの手を握った。


「泣いてますか?」


「あ——」


 頬に触れると、指先が濡れた。

 涙はいつの間にか流れていたらしい。


「気がつかなかった」


「リーゼさま、悲しいですか?」


「悲しい……だけじゃ、ないと思う」


 わたしはアリアへ笑いかけた。

 うまく笑えたかは分からない。


「ただ、別れは、いつも胸の変なところに残るね」


 アリアが小さく頷く。

 彼女の目も赤かった。



 * * *



 馬車は平原を進んでいた。


 次の街道宿駅まで一日。

 その後、北山の麓にあるベルクハイムまで四日。


 空は高く、青い。

 雲が薄くちぎれて、馬車の揺れに合わせるように流れていた。


 殿下は、わたしの隣に座っている。

 出発してから、ずっと黙ったままだった。


「殿下」


「ん?」


「お別れは、寂しかったですか?」


 殿下がこちらを見た。


「俺は、別れには慣れている」


「そうですか」


「皇族は、置いていくことに慣らされる。家臣が死ぬ。同盟者が裏切る。母が死ぬ」


 母のところだけ、声が少し落ちた。


「だから、いちいち痛がっていたら立っていられん」


「殿下」


「だが」


 殿下は窓の外へ視線を逃がし、それから戻した。


「ボガートとの別れは……寂しかった」


 わたしは頷いた。


「殿下、ボガートさんと何を話してたんですか?」


「馬の話だ」


 殿下がふっと笑う。


「俺は皇宮で、馬は戦うために扱う、と教わった。だがボガートは、馬は伴侶だと言っとった」


「伴侶……」


「扱うものではない。共に生きるものだ。走り、休み、食う。その全部を共にする」


 膝の上の手が、手綱を思い出すようにわずかに動いた。


「ボガートの馬への愛情は、俺の中になかった視点だ」


 わたしは殿下を見た。


 乾いた風が窓から入り、殿下の前髪を揺らした。

 皇宮で固まっていたものが、少しだけ緩んで見えた。


「殿下」


「ん?」


「殿下が皇位を継いだら、どんな皇帝になりますか?」


 殿下は長く黙った。

 車輪の音だけが、床板の下で続いた。


「分からん」


「分からない——」


「俺が皇帝になると決まっているわけではない」


 口調は淡々としていた。


「兄上が皇太子だ。俺は第二皇子だ。順番では兄上が継ぐ」


「殿下、兄上は——」


「最近、体を崩している」


 声が低くなる。


「兄上は優しい人だが、皇位を継ぐには向いていない、と言われ始めている。父上は、まだ決断していないが——」


「殿下が皇帝になる可能性も、ある、と」


「ある」


 殿下は短く頷いた。


「だが、俺はそれを望んでいない」


「望んでいない——」


「皇宮の暗闘が嫌いだ。剣の訓練は好きだ。だが、政治の駆け引きは嫌いだ」


 吐き出すような声に、苦いものが混じった。


「俺は——」


 そこで殿下は唇を結ぶ。


「いや。何でもない」


「殿下」


「リーゼ」


 殿下が、わたしの目を真正面から見た。


「俺は、これからお前に——言葉を預けてもいいのか」


「え?」


「皇位を継ぐかもしれない男が、お前へ私情を向けていいのか」


 心臓が、ひとつ強く跳ねた。


 殿下の目は深かった。

 いつもの氷の色ではない。

 底の見えない海を、夕暮れにのぞき込んだような色だった。


「殿下」


「言うなと思ったら、止めろ」


「殿下、わたし——」


「俺は」


 殿下が息を吸う。

 その音まで聞こえた。


「俺は——お前を」


「殿下!」


 ソフィアさまの声が、馬車の中を跳ねた。


 殿下は口を閉じる。

 わたしも、弾かれたようにソフィアさまを見た。


「ご、ごめんなさい! でも、あの——窓の外、見て」


 ソフィアさまの視線は、車窓の外へ釘づけになっていた。


 馬車が丘を登り切る。

 その先に、北山が見えた。


 雪を被った頂。

 灰色の岩肌。

 荒々しいのに、目を離せない山々。


「すごい——」


 わたしは息を呑んだ。


 殿下も窓の外を見た。


「初霜だ」


「え?」


「山の頂に、もう初霜が降りとる。遠目に白く見える」


 殿下が目を細める。

 さっきとは違う、旅の先を測る目だった。


「これから先は寒い」


「はい」


「お前、寒さに強くないだろう」


「……強くは、ないです」


「フィン、毛皮を追加で調達しておけ」


「畏まりました」


 フィンさんが頷いた。


 殿下は、もう先ほどの言葉を続けようとはしなかった。


 わたしの胸は、まだ落ち着かない。

 あの言葉の続きを、聞きたかった。


 けれど、ソフィアさまが止めたのは、たぶん間違いではなかった。

 フィンさんもアリアもいる。馬車の中で、聞いてしまうには近すぎた。


 わたしの方にも、まだ受け止める場所がなかったのかもしれない。



 * * *



 夕方、馬車は街道宿駅に着いた。


 夕食の後、わたしは宿の屋上へ上がる。

 冷えた石床が靴底から伝わってきた。


 草原はもう見えない。

 代わりに、北山の影が夜空へ黒く聳えていた。


 肩のネルが、低く言った。


「リーゼ」


「はい」


「あの皇子は、お前さんを好いとる」


「……」


「お前さんも、自分の心はもう分かっとるな」


「ネル」


「分かっておれ。だが、急ぐな」


 ネルのしっぽが、わたしの頬をかすめた。

 毛先が夜風より温かい。


「結ばれるには、まだ長い道がある。お前さんは、皇族と結ばれることの重さを知らんぞ」


「はい」


「焦るな。お前さんは料理人の道を歩いておる最中だ。皇子のことは、自分の地に立ってから考えればいい」


 わたしは頷いた。


 ネルの言葉は、胸の中で熱を冷ます薬湯みたいに染みた。

 甘くはない。けれど、身体を戻してくれる。


 北山の影が、月光の中で黒々と立っている。

 山の食卓は、その向こうで火を焚いていた。

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