【80】草原の宴
草原の宴は満月の夜にひらかれる。ユーリアがそう教えてくれた。
ユーリア族にとって、夏いちばんの祭りだ。
羊を丸ごと火にかける。
馬乳酒の樽を抜く。
族の女たちはみな家の味を盆や鍋に盛って運び、男たちは馬の競走に出る。
その宴に、わたしも帝都の料理を持っていくことになった。
言い出したのは、ユーリアだった。
「リーゼ。お前の世界の料理を、族の皆に披露しろ」
「いいんですか?」
「我らの料理だけでは、舌が寝る。新しい風が入った方が、宴は面白い」
ユーリアが片頬を上げた。
「お前さんの馬乳酒のお粥を、皆で食べたい、と女たちが言うとる」
わたしは、胸の前で手を握った。
* * *
宴の前日、わたしは鍋と籠を並べて、仕込みにかかった。
大鍋には、馬乳酒のリゾット風お粥。
ユーリアとボガートに出した、あの一皿だ。族の女性たちも欲しがっていたから、大鍋いっぱいに仕込む。
リヒト粒は塩で握る。
帝都のおにぎりだ。中には、草原のハーブをすり潰した味噌風のペーストを詰める。草原の食材で、帝都の形を作る。
スープには、ユーリア族の乾燥チーズと、帝都の海藻。
草原と海の旨味を、同じ椀の中で合わせる。
甘味は——アリアの出番だった。
「アリア」
「はい!」
「明日の宴で、デザートをお願いしたい」
「わたしが、ですか?」
「ユーリア族の女性たちにも、喜んでもらえるものを作って」
「リーゼさま、わたし、まだデザートは——」
「アリアならできる。馬乳酒を使った、ヨーグルト風のデザート。どう?」
「馬乳酒を、デザートに……」
アリアの目に、ぱっと火が入った。
「やってみたいです!」
「失敗してもいい。アリアの舌と手で、作ってみて」
「はい!」
わたしは、アリアの肩を軽く叩いた。
弟子が、自分の料理を探しはじめている。
仕込み場の火より、その横顔の方がまぶしかった。
* * *
満月の夜。
草原の中央広場は、篝火で赤く照らされていた。
何十もの炎が風にあおられ、火の粉が夜へ散る。
串に刺された羊が脂を落とし、炎がじゅっと舌を伸ばす。
女たちは布に包んだ皿や大鍋を運び、男たちは馬乳酒の樽栓を抜いていた。
子供たちは足音まで弾ませ、笑いながら人の間を駆け抜けていく。
わたしは長い木のテーブルに、自分の料理を並べた。
大鍋の馬乳酒のお粥。
籠いっぱいのおにぎり。
湯気を立てる、海と草原のスープ。
そして——アリアのデザート。
アリアは最後の仕上げに夢中だった。
白いヨーグルト風のベースへ、草原の蜂蜜を糸のように垂らす。
その上にベリーを置き、刻んだナッツを指先で散らした。
「リーゼさま、見てください!」
アリアが皿を両手で差し出した。顔が、篝火より明るい。
わたしは皿を見て、一瞬、息を止めた。
白い面に、紫、赤、茶色が浮かぶ。
夜の草原で見上げた星空が、そのまま皿の上へ降りてきたみたいだった。
「アリア、すごい!」
「えへへ」
「これ、自分で考えたの?」
「はい! 夜の草原の空が、すごく綺麗で——あれをデザートにできないかなって」
わたしはアリアの頭を撫でた。
皿の上に景色を作る。
アリアの中で、料理人の芽が確かに動き出していた。
* * *
宴が始まった。
ユーリアが中央の岩へ上がる。
手には、馬乳酒を満たした銀の杯。
「夏の満月の夜」
ユーリアの声が、草の上をまっすぐ渡った。
「我らの族は、今年もここに集まった。馬は健康。子供は育ち。乳は潤う」
族員たちが、銀の杯を掲げる。
「今宵、客人を迎える」
ユーリアの目が、わたしへ向いた。
「異邦の料理人、リーゼ。彼女は、我らの料理を本に書き残してくれる、と約束した」
視線が一斉に集まり、頬に熱が差した。
「彼女は、外人だ」
ユーリアが言い切る。
「だが、我らの族の知恵を敬う心を持っとる。先生の後継者だ」
「先生——」
古い族員たちが、ざわめいた。
バルダックさまが、うなずく。
「百年前の先生だ。バルダックさまも認めとる」
古い族員たちの顔が、バルダックさまへ向いた。
バルダックさまは目を閉じ、もう一度、首を縦に振った。
ざわめきが火の音へ沈んでいく。
「リーゼも、料理を作って持ってきた」
ユーリアが、わたしのテーブルを指した。
「皆、彼女の料理を食べろ。そして、感想をリーゼに教えろ。それが客人への礼だ」
族員たちがうなずいた。
ユーリアが銀の杯を高く掲げる。
「乾杯!」
「乾杯!」
篝火が揺れた。
馬乳酒が杯へ注がれる。
宴の音が、一気にふくらんだ。
* * *
族員たちが、わたしの料理へ手を伸ばした。
最初にお粥を口にした年配の女性が、匙を止める。
しわの深い頬に、涙がひとつ落ちた。
「これは——わたしの母さんの味だ」
女性は手の甲で目元を拭った。
「母さんは二十年前に死んだ。馬乳酒で、お粥をよく作ってくれた。忘れとった、その味を」
別の女性が、おにぎりを噛みしめてうなずく。
「米と塩とハーブ。飾らんのに、深いな」
「アロル(乾燥チーズ)と海藻のスープ——」
ある男が、椀を覗き込んだ。
「我らのチーズが、海の物とこんなに合うとは知らなんだ」
子供たちは、アリアのデザートの前で足を止め、声を上げた。
「綺麗!」
「夜の空、みたい!」
「食べていいの?」
アリアが顔を輝かせ、子供たちにデザートを配っていく。
子供たちは一口頬張り、そろって目を丸くした。
「美味しい!」
「もう一個!」
「お母さんに、これ、教えて!」
アリアの目に涙が滲む。
わたしも唇を噛んだ。
弟子の料理で、人が笑っている。
その横顔を見ていたら、喉の奥に熱いものがせり上がった。
* * *
ユーリアが、わたしの隣に腰を下ろした。
馬乳酒の銀の杯を、こちらへ差し出す。
「リーゼ。我らの族の最高の馬乳酒だ。飲め」
「ありがとうございます」
わたしは銀の杯を口へ運んだ。
馬乳酒は、舌の上でほどける味だった。
乳の甘みが先に来る。
そこへ乳酸の爽やかな酸味が走り、アルコールの熱が喉を撫でた。
飲み込んだあと、深いコクが鍋底から湧くように残った。
小さな職人たちが、舌の上で桶を叩き、火を起こし、味を組み上げていくみたいだった。
「ユーリア」
「ん?」
「美味しいです」
「ふん。当たり前だ」
ユーリアが、鼻で笑った。
「リーゼ」
「はい」
「お前さんに聞きたいことがある」
「何でしょう」
「お前さんが料理人として目指すものは、何だ」
わたしは息を吸い、杯の縁を親指でなぞった。
「すべての人が、毎日、美味しくご飯を食べられる世界です」
「すべての人——」
「魔力があっても、なくても。貴族の食卓だけが温かくて、平民の鍋が冷めているのは嫌です。男でも、女でも、子供でも、老人でも、自分の食卓で、自分の料理を作って笑える世界。それが、わたしの目指す世界です」
ユーリアは銀の杯を置いた。
「壮大だな」
「壮大すぎますか」
「いや」
ユーリアは首を振る。
「いい目標だ。だが——」
その目が、わたしをまっすぐ射た。
「お前さん、自分の身が危なくなるぞ」
「え?」
「全員に料理を行き渡らせる、というのはな。今の力の並びを揺らすことだ。貴族だけがいい料理を食う、その特権に手をかけることになる」
ユーリアの声が低くなる。
「お前さんは、今の権力者から敵視される。すでにされ始めとる、とわしは感じる」
わたしは息を呑んだ。
「ユーリアさま、何かご存知ですか」
「使い魔——ネル」
「うむ」
「お前たちの後を追ってきとる影がある。我らの族の北の偵察隊が報告しとる」
ネルが目を細めた。
「やはり、追跡されとるか」
「赤い蝋印章をつけた男たち。三人。馬で、お前たちを追っとる」
ボガートが近づいてきた。
篝火の影で、彼の険しい顔がさらに濃く見えた。
「姉さん。明日、リーゼの一行を北へ案内する。早めに出発した方がいい。追っ手を引き離すために」
「ボガート」
「明朝、五時、出発でどうだ」
わたしはボガートを見た。
「ボガートさん、わたしたちのために、そんな——」
「気にするな」
ボガートが短く言った。
「お前は、姉さんの同志だ。姉さんの同志は、わしの客人でもある」
わたしは頭を下げた。
「ありがとうございます」
「ふん」
ボガートは馬乳酒の杯を掲げた。
「リーゼ。お前さんの料理は美味かった」
「ありがとうございます」
「次に来る時、もう一度作ってくれ」
「必ず」
わたしは、ボガートの銀の杯に自分の杯を合わせた。
満月の下で、銀が澄んだ音を立てる。
帝都の料理人と、草原の有力者の杯だった。
* * *
宴がほどけはじめた頃、ユーリアが革袋を持ってきた。
中には、馬乳酒の菌の株。
チーズの乾燥した株。
二種類の発酵の母種。
「これを、お前さんに」
「ユーリア——」
「これさえあれば、お前さんは帝都で馬乳酒もチーズも作れる。我らの族の味を再現できる」
わたしは両手で革袋を受け取った。
「大切にします」
「ふん」
ユーリアが、わたしの肩に手を置いた。
「いつか、戻ってこい」
「はい」
「我らの族は、お前さんを待っとる」




